肥前国人 馬渡氏



馬渡氏は「もうたい」と読む。
但し、古文書等には「もうたり」と記されていることもあることから、
「り」を「い」と誤判されたものである可能性も高い。
長崎県に多い「まわたり」は漢字からそのまま読んだものであるが、
こちらも「たり」であるため、実際には「もうたり」が正しいと考えられる。

馬渡氏は肥前国馬渡島に拠るが、馬渡島の名前の由来には主に二つの説がある。
一つは、大陸から馬が最初に渡ったので「馬渡る島」から「馬渡島」という伝。
実際、中世から近世にかけては馬の放牧場として利用されており、
江戸時代は唐津藩の軍馬放牧場であった。
もう一つは、源義家の甥にあたる中近江(美濃とも)馬渡庄の本馬八郎義俊が、
白河上皇院政のころ延暦寺僧兵の強訴鎮圧による冤罪を受け、
松浦郡に流されこの島に土着し、当時斑島と言った島を馬渡島と書き改め、
自らも馬渡氏と称したと言われている。
今は「馬渡島」だが、過去には「小島」「斑島」「摩多羅島」「間多良島」
などと呼ばれていたときもあったらしい。

馬渡氏の活動は、建治二年(1276)蒙古襲来時、博多湾防塁に従軍し
弘安四年(1281)の再襲来時には、馬渡八郎が軍功を挙げたことが史料に見える。
その後、南北朝争乱期、九州探題に任じられた今川了俊が下向した折には、
呼子で馬渡甲斐守が松浦一党として出迎えている。

戦国時代を通して西肥前に拠り盛衰を繰り返したが、中頃には少なくとも二流に
別れていたようだ。即ち、有馬・平井・波多の各氏と繋がりを保ち、
武雄領主後藤氏と争った馬渡甲斐守俊明秀岩入道を首魁とする一党と、
龍造寺氏に従った馬渡兵部少輔俊光・七郎次郎義者の一党である。
しかし、永禄から元亀・天正年間になると肥前佐嘉の龍造寺氏勢力が拡大し、
平井氏は滅亡し、馬渡氏は平戸松浦氏のもとに逃れることとなった。
勢力を持った甲斐守俊明も後藤氏との戦いで敗れ、戦死した。
龍造寺氏に仕えた一党は、当初その宗家である村中龍造寺に士官。
胤久、胤栄を経て隆信に仕え、その後佐賀藩鍋島氏に仕え現在に続いている。
また、朝鮮出兵時の帳簿に馬渡相右衛門茂光の名がみえる。
冠字の「茂」は鍋島直茂あるいは勝茂の偏だろうか。

笑岩の系統の多くは「俊」を通字としていることから、
江戸時代に「北肥戦誌」を編纂した馬渡俊継はその系譜の人物と思われる。
また、明治時代初期の造幣局長に馬渡俊邁(としゆき)という人物がいるが、
これもその末裔ではないかと思われる。



【馬渡一族】

◆馬渡為明
父は馬渡俊房。甲斐守。


◆馬渡俊明
父は馬渡為明。甲斐守。秀岩入道。笑岩。


◆馬渡賢俊(?〜1566)
父は馬渡俊明。伊豆守。英俊。
永禄年間、有馬氏に接近しつつあった馬渡氏だが、
これを危惧した後藤貴明に居城を攻められ討死した。


◆馬渡俊兼
父は馬渡俊明。式部少輔。兵庫助。


◆馬渡俊実
父は馬渡俊明。左馬助。


◆馬渡直勝
父は馬渡俊兼。弟に治俊。
直勝の名は、1564年に元服した際、有馬義純が加冠し与えた。


◆馬渡治俊
父は馬渡俊兼。直勝の弟。
字「治」は1571年に元服した際、平井経治から与えられた。
しかし1574年に平井氏は龍造寺氏によって滅ぼされ、
治俊は兄の馬渡直勝とともに平戸松浦氏の下へ逃れた。


◆馬渡俊之
父は馬渡俊兼。藤右衛門。


◆馬渡義者
父は馬渡為明。七郎次郎。重有。


◆馬渡俊仲
父は馬渡義者。


◆馬渡信光。
父は馬渡義者。俊光。
龍造寺氏に仕え、120町を領す。


◆馬渡賢明
父は馬渡義者。


◆馬渡俊信
父は馬渡俊仲。


◆馬渡俊孝
父は馬渡俊仲。孫三郎。越後守。栄信。俊季。
龍造寺氏に仕え、300町を領す。


◆馬渡信基
父は馬渡俊孝。信喜。


◆馬渡光明
父は馬渡俊仲。三河守。
98町を領す。


◆馬渡俊則
父は馬渡信基。刑部少輔。
80町を領す。
龍造寺隆信の馬廻役。旗本四天王の一人。


◆馬渡賢斎
賢才。沖田畷の合戦に従軍し、討死。
100町を領す。


◆馬渡主殿介
天正元年松浦地方征伐の折、落城せしめた
獅子ヶ城に龍造寺河内守とともに在番した。


◆馬渡五郎八
波多三河守の家臣。
三河守の妻室及び子息孫三郎が佐賀表へ送られる折、
道中警固として八並武蔵守とともに付き従った。


◆馬渡久森
源太。藤原姓。波多家臣で梶山村にて百石を領すという。


◆馬渡廣作
小笠原家臣。現米十五俵。


◆馬渡又兵衛
鍋島勝茂に従い伏見攻めに参加。太鼓櫓の下で上林竹庵政重を討ち取る。
尚、首を上げたのは鈴木善八であるとも言われる。


◆馬渡又兵衛
佐賀藩士。神崎郡上大豆田村のうち八石など計四十二石を領す。


◆馬渡千三郎
佐賀藩士。神崎郡上大豆田村のうち十石を領す。


◆馬渡新助
貞享二年、川古村の代官を務める。


◆馬渡甚六
宝永四年、大風旱魃の飢饉の折に御加勢米を下す使者を務める。


◆馬渡勘右衛門
正徳四年から享保十六年の間、川古村の代官を務める。
享保十年巳夏、大旱魃の折、畑物成御加勢米を下すという記事がある。


◆馬渡俊資
九郎右衛門。大組頭。鍋島内膳組の手明鑓頭。
鍋島治茂の時代文化二年惣着到より。


◆馬渡三郎左衛門
弘化二巳年惣着到より。
弥平左衛門組。物成五十石。


◆馬渡礼太夫
弘化二年、佐賀藩の長柄鑓足軽の組頭を務める。


◆馬渡支配
弘化二年、佐賀藩の足軽組頭を務めた。
尚、「支配」とは役名であるが、これを通称としたものか
本来の役名なのかは判然としない。


◆馬渡七太夫
長崎海軍伝習所に佐賀藩より送り込まれた第一期生の一人。
安政元年七月出崎分の中に名が見える。


◆馬渡俊邁(?〜1875)
八郎。長崎海軍伝習所の第一期及び二期生にその名が見える。
佐賀藩通事。藩費で密航同然に欧州に視察へ赴いた。
新政府に出仕。大蔵省四等出仕。権亟兼造幣頭。
明治五年四月、従五位に拝す。
また、明治三年五月に外務少丞として対馬通事中野許太郎と共に
朝鮮へ通称を要求すべく釜山に渡海した記事が見える。


◆馬渡栄助
幕末の佐賀藩士。身分は足軽。
戊辰戦争における秋田戦争に参加し、当地で討死。


本稿は「北肥戦誌」、武富家及び成富氏の文書などを参照した。
また、苗字辞典や庄屋文書・鍋島文庫などからも抽出している。
その他、着到帳及び佐賀県史料集成を主な情報源としている。



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