織田家・信長公御兄弟之儀

信広・秀俊・信長・信勝・秀孝・信包・信治・信興・信照・秀成・長益・長利



2014.07.13 改訂
2014.07.18 加筆
父:織田備後守信秀

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◆織田 信広(?〜1574)

通称:三郎五郎、大隅守
別名:信廣、津田信広
法名:大龍寺殿寛厳

順:庶長子

兄:−
弟:秀俊、信長、信勝、秀孝、信包、信治、信興、信照、秀成、長益、長利

妻:不明

子:丹羽長秀の妻

事跡:
天文十七年(1548)第二次小豆坂の戦いに従軍、先鋒を務める。
戦後、安城城代となり守備を任される。
天文十八年(1549)3月、今川軍に攻められこれを撃退。(第三次安城合戦)
三河勢の本多忠高を討ち取る。
同年11月、再度攻められた折には落城、降伏し生け捕りされる。(第四次同)
松平竹千代との人質交換により尾張に戻る。
弘治二年(1556)斉藤義龍と結び謀反を画策するも漏えい、未遂。
しばし小競り合いを起こすも退けられ降伏。赦免された。
その後は信長に仕え、甥たちが幼いこともあり連枝の上位を占めた。
永禄十二年(1569)から元亀元年(1570)頃まで京都に常駐し、名代を務める。
山科言継、吉田兼見、一条内基らと交友をもち、特に吉田と昵懇となった。
元亀元年(1570)比叡山焼き討ちに従軍。
元亀三年(1572)信長五男御坊丸が美濃岩村の遠山氏の養子となる際、
これを送り届け、その後武田氏が攻めてくると救援に赴く。
天正元年(1573)信長の名代として足利義昭との和議を締結。
天正二年(1574)伊勢長島一向一揆攻めに従軍。
最後の乱戦において大木兼能との一騎打ちにて討死。

男子はなく、娘が一人あり。
彼女は信長の養女として丹羽長秀に嫁ぎ、嫡男長重を生んだ。
また、異説として男子に武石五郎信興。
女子に織田信正(信長庶長子)室の恭姫と六角義秀室がいるという。

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◆織田 秀俊(?〜1556)

通称:喜蔵、安房守
別名:信時
法名:

順:次男?

兄:信広
弟:信長、信勝、秀孝、信包、信治、信興、信照、秀成、長益、長利

妻:不明

子:織田康長、飯尾敏成・下間頼龍の妻

事跡:
叔父・織田信康の養子となる。
「公記」には三郎五郎の弟と書かれており同腹とみられる。
林や柴田が謀反を企てた時、察知した信長は秀俊のみを連れて彼らに
会いに行き、その豪胆さを示したという。
弘治元年(1555)叔父・信次出奔後の守山城主。
弘治二年(1556)家臣・角田新五郎の謀反にあい自害。


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◆織田 信長(1534〜1582)

通称:吉法師、三郎、上総介、弾正忠、尾張守、弾正大弼、参議、
   大納言、右近衛大将、内大臣、右大臣
別名:
法名:総見院殿贈大相国一品泰巌

順:嫡男。三男?

兄:信広、秀俊
弟:信勝、秀孝、信包、信治、信興、信照、秀成、長益、長利

妻:斎藤利政の娘、生駒家宗の娘、坂氏の娘、興雲院(鍋)、原田直子、養観院、
  土方氏の娘、慈徳院、三条西氏の娘

息:信忠、信雄、信孝、秀勝、信房、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次
娘:徳川信康室、蒲生氏郷室、筒井定次室、前田利長室、丹羽長重室、中川秀政室、
 豊臣秀吉・二条昭実室、水野忠胤・佐治一成室、万里小路充房室、徳大寺実久室
異説(庶子):織田信正、五藤信親、生駒直勝、埴原乙殿、樋口信胤

事跡:
(省略)


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◆織田 信勝(1536〜1557)

通称:勘重郎、勘十郎、弾正忠、武蔵守
別名:信行、信成、達成
法名:松岳道悦

順:四男

兄:信広、秀俊、信長
弟:秀孝、信包、信治、信興、信照、秀成、長益、長利

妻:春日刑部の娘、和田備前守の娘

子:信澄、信兼、信糺、信直、神田之成の妻

事跡:
信長の同母弟。末森城主。
信秀の死後、跡目を巡って信長と対立、二度までも謀反を企み、
二度目にはついに信長によって殺されてしまった。
子の信澄は本能寺の変において明智光秀の女婿であったことを理由に
滅ぼされ、その子孫は豊臣氏、次いで徳川幕府の旗本となった。
その他の子である信兼は信孝に殉じ、信糺、信直は蜂須賀氏に仕えた。


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◆織田 秀孝(?〜1555)

通称:喜六郎
別名:信孝
法名:

順:五男

兄:信広、秀俊、信長、信勝
弟:信包、信治、信興、信照、秀成、長益、長利

妻:−

子:−

事跡:
弘治元年七月、秀孝が龍泉寺の傍らの松川の渡しを馬で通り過ぎたところ、
守山城主の織田信次の家臣洲賀才蔵に誤って弓で射殺された。
 「公記」によると容姿端麗の美少年だったようだ。
 また、この事件は秀孝が信勝支持であった為、信長・信次共謀による
暗殺劇だったする説もある。


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◆織田 信包(1543〜1614)

通称:三十郎、上野介
別名:信兼、長野信良
法名:真珠院心厳安公

順:六男

兄:信広、秀俊、信長、信勝、秀孝
弟:信治、信興、信照、秀成、長益、長利

妻:

子:信重、寿圭、信則、信当

事跡:
天正九年(1581)の馬揃えでは連枝衆として十騎を従えて登場する。
信長の兄弟では信包のみが軍団長として待遇を受けたようである。
本能寺の変後も大名として残ったが、孫の代で江戸時代初期に途絶えた。
長男信重の子孫は肥後細川氏に仕え、四男信当は三千石の旗本となった。


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◆織田 信治(1545〜1570)

通称:九郎
別名:
法名:

順:七男

兄:信広、秀俊、信長、信勝、秀孝、信包
弟:信興、信照、秀成、長益、長利

妻:柘植大炊助の娘

子:柘植正俊

事跡:
元亀元年九月、近江の宇佐山城が浅井・朝倉連合軍に急襲された時、
信治は十九日の未明に京都から兵二千を従えて救援に駆けつけた。
翌二十日、宇佐山城将森可成とともに敵を迎え撃ったが、衆寡敵せず、
敵の猛攻のまえに討死した。


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◆織田 信興(1545〜1570)

通称:彦七郎
別名:
法名:

順:八男

兄:信広、秀俊、信長、信勝、秀孝、信包、信治
弟:信照、秀成、長益、長利

妻:

子:彦七

事跡:
元亀元年(1570)11月、信長が近江の志賀の陣で出陣している隙を狙い、
伊勢長島の一向一揆により居城小木江城を急襲され、支えきれず自害した。
信興の死を知った信長は激怒したという。


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◆織田 信照(?)

通称:越中守
別名:織田中根、中根越中守
法名:

順:九男

兄:信広、秀俊、信長、信勝、秀孝、信包、信治、信興
弟:秀成、長益、長利

妻:

子:新兵衛、市之丞

事跡:
尾張沓掛城主として尾張東部に所領を形成。
天正九年の馬揃えでは連枝衆として弟たちと行進した。
本能寺の変後は信雄に仕え、犬山城の守備などを行ったが、
詳しい足跡は不明であり没年も不明。
子息の織田市之丞は本能寺の変で討死した。


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◆織田 秀成(?〜1570)

通称:半左衛門尉
別名:津田秀成
法名:

順:十男

兄:信広、秀俊、信長、信勝、秀孝、信包、信治、信興、信照
弟:長益、長利

妻:−

子:−

事跡:
天正二年七月の伊勢長島一向一揆攻めに信忠軍として従軍、討死した。



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◆織田 長益(1547〜1621)

通称:源五郎、武蔵守、侍従
別名:有楽斎
法名:正伝院如庵有楽

順:十一男

兄:信広、秀俊、信長、信勝、秀孝、信包、信治、信興、信照、秀成
弟:長利

妻:平手政秀の娘

子:長孝、頼長、俊長、長政、尚長、有諫

事跡:
天正九年(1581)正月、内裏の東馬場での馬揃えにて御連枝衆として行進。
天正十年の武田攻めに従軍。信州深志城の受け取り役に名がみえる。
本能寺の変では信忠の軍勢にあり二条御所にあったが脱出。
のち信雄、次いで秀吉に属し大名に列し、茶人として大成する。
子孫は徳川幕府に従い大名家を二家残した。


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◆織田 長利(?〜1582)

通称:又十郎
別名:長則、長規、津田長利
法名:心伝宗正

順:十二男

兄:信広、秀俊、信長、信勝、秀孝、信包、信治、信興、信照、秀成、長益
弟:

妻:

子:宗助利昌、織田信雄の側室

事跡:
天正二年にはじまる長島一向一揆潰滅戦に従軍。
天正九年春の馬揃えにも織田一族として参列している。
本能寺の変では信忠の軍勢にあって、信忠らとともに討死。享年は不明。

≪参考文献・資料≫
中川太古  『(現代語訳)信長公記 上・下巻』新人物往来社 加来耕三  『(現代語訳)武功夜話、信長編』新人物往来社 加来耕三  『(現代語訳)武功夜話、秀吉編』新人物往来社 瀧喜義   『「武功夜話」のすべて』 新人物往来社 岡田正人  『織田信長 総合辞典』  雄山閣 西ヶ谷恭弘 『考証―織田信長辞典』  東京堂出版 西ヶ谷恭弘 『図解雑学―織田信長』  ナツメ社   ほか






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