織田家・信長公叔父御之儀


織田信長の父・信秀には5人の弟たちがいた。
信康・信光・信実・信次・信正




◆関連事項−織田信秀に関して− 

信秀は武勇優れ、弟たちや他の三奉行家を指揮して、美濃や西三河へと進出した。
のちに信秀は弾正忠から備後守に名乗りを変えるが、織田一族のなかでは「三郎殿」
と呼ばれていた。信秀は武勇の人であったが、蹴鞠や和歌・謡なども好み、また、
たびたび狩猟にも出かけていたことが史料により散見できる。


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◆織田信康 (?〜1547) 尾張犬山城主。

信秀の弟。与二郎。
信秀の庶兄だという説もある。

武勇の人だったらしく、小豆坂の戦いでも武功をあげている。
天文十一年(1542)九月、信秀は美濃斎藤氏を攻め信康も出陣。
稲葉山井ノ口城下の村々を焼き払い町口まで押し寄せたが、夕暮れとなり撤退。
その撤退のさなか、手勢が半数ばかりになったところへ奇襲を掛けられ、
守備叶わず討ち死にした。法名・伯厳居士。
遺領は嫡男信清が継いだ。

子は信清、広良、與康、休以、玄貞、玄心、與一(柘植氏)、黙斎
尚、信長の弟・信時は実は信康の子で信秀の養子となったとされる説があり、
逆に信秀の子が信康の養子になったとする資料もある。

信秀時代、織田家の為に大いに貢献した信康だが、子・信清は信長と敵対の道を選んだ。
そして信長に敗れた信清は甲斐に逃れ、犬山鉄斎と称し、信玄の御伽衆として過ごした。
また、信長が本能寺の変に在った折、安土城留守役の織田信益は信清の子という。


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◆織田信光 (?〜1555) 尾張那古屋城主

信秀の弟。虎千代。孫三郎。
子に信成、信昌、仙千代。


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◆織田信実 (?〜?)

信秀の弟。四郎三郎を称した。

小豆坂の戦いでも活躍するというが、その他の戦歴は伝わっていない。
小豆坂の戦いとは、今川・松平連合軍と織田が戦った戦いで、
織田方で特に活躍した七人の武将を小豆坂七本槍として称えている。
その中には信実の兄である織田信光も入っていた。

信実は信正と違い、系図などにはちゃんと出てくるにも関わらず、
上記戦いのこと以外では全く出てこない。生年・没年も伝わらない。

兄・信光の次男・四郎三郎信昌を養子とした。
信昌の子・津田長義の娘は福島正則の正室となっている。
また、娘がおり織田左兵衛尉寛重の生母とも。


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◆織田信次 (?〜1574) 尾張守山城主

別名:津田孫十郎、右衛門尉

信長の叔父に当たり、一般に信秀の末弟。

信秀、信長親子に仕えた。
守山城主となっていたが、弘治元年(1555)、狩猟中に家臣・洲賀才蔵が誤って
信長の弟喜六郎秀孝を殺害したため、報復を恐れて守山城を捨て、行方不明と
なった。 後日尾張国内で捕縛されたという。
守山城下は秀孝殺害に怒った織田信勝の軍勢に焼き払われた。信勝は率先して
守山に兵を出し、自らの勢力圏に置きたいという考えだったのかもしれない。
その後守山城は、信長の弟である信時(安房守)が城主を務めた。
しかし、信時は守山城の重臣・角田新五の謀反にあい自害。
翌年、放浪中(捕えられたとも)の信次は信長に許され守山城主に復帰した。
その後は連枝衆として信長に従って各地を転戦(一部を除き詳細は不明)するが、
天正二年(1574)九月二十六日、伊勢長島一向一揆の最後の平定戦で討死した。

『信長公記』において、天正九年(1581)二月二十八日の馬揃え、及び天正十年
(1582)二月十六日の武田攻めの記事中に「織田孫十郎」という人物が載っているが、
信次の子であろうか。

また、諸系図には、信次の子として織田刑部大輔(駿河守)宗養(信則)、
その子に、中川重政・津田盛月・木下雅楽助・織田善右衛門という兄弟を記している
ものもあるが、年代・年齢的に信次の孫というのは考えがたい。
信次の子に信則と記しているものについては、件の諸系図に織田刑部大輔と記されて
いることから、信包の子・信則と混同しているものと思われる。
さらに、信次よりももっと前の世代の織田一族に、織田右衛門尉という人物がいるため、
それらとも混同している可能性もある。

なお、中川重政の子孫は加賀藩士、津田盛月の子孫は豊臣政権下で大名となったが
僅か三代で改易されてしまった。木下雅楽助は長久手の戦いで戦死、織田善右衛門
については一部の資料にその名を留めるのみで詳細は不明。
これらの兄弟の子孫は後に斯波氏に復姓したことから、実際は斯波氏であり、
諸事情により織田姓を名乗ったのち、同様の名乗りになったと考えられる。


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◆織田信正 (?〜?)

織田信秀の末弟とされているが、各資料には全く出てこない人物であり、
信長庶子の織田信正との混同かとも考えられる。
織田支族に織田一正という美濃の島村に住み、島氏を称し島一正と名乗った者がおり、
これの父親であるという。
また、一説には楽田城主織田筑後守寛貞のことであるともいう。
寛貞は織田氏本流の流れであるが、後信長と敵対し没落した。

信正の子には、信久、信重、信和、一正がおり、
このうち信重と信和・一正が武将として働いた記録がある。

勘右衛門信重は別喜右近(梁田広正)の与力として加賀へ赴いた。
別喜右近が尾張へ戻されてからは佐久間信盛の与力に転じた。
さらに信盛追放後は、信長の馬廻りとして仕え、本能寺の変後は秀吉に仕えた。

又左衛門信和は長谷川秀一に仕え、朝鮮における軍評定に出た。

弥左衛門一正も主な事跡は兄たちと同じくする。
慶長八年に家康の使番となり千五百六十石を知行し、大阪の両陣にも参陣。
寛永三年七十九歳で死去した。子孫は旗本として存続した。

尚、信正は信秀の末弟とする資料もあるが、子らの活躍具合から鑑みるに
恐らく末弟は信次で、信光より上、信実と同じくらいではないだろうか。
庶流の出なので席次が低く、島氏を名乗ったのかもしれない。


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