織田家・織田一族


信長だけが織田氏ではない。信長流以外の織田一族を研究す。



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◆織田造酒丞(さけのすけ・みきのじょう)

別名:織田信房、信辰、清正、政房、造酒佐

織田一族ではないが、信秀に仕えていた頃その力量を認められて織田姓を下賜された。
一族外で織田姓を下賜された珍しい人なので一門として表す。

天文11年(1542年)8月、織田と松平・今川連合軍が激突した小豆坂で功名を得た
七人の武将(小豆坂の七本槍)の一人に数えられた猛将。
弘治2年(1556年)8月、稲生の戦いでは信長に従い、柴田勝家・林美作守の軍に
対して奮戦した。
永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いに従軍し今川義元本陣への切り込み隊に
加わっている。
その後文献には登場しないので、桶狭間で討死したとする説もあるが、活躍の割に
その死についての記載がないので死んではいないと思われる。隠居したのだろうか。

子に嫡男・小瀬清長と次男・菅屋長頼がいる。
親子兄弟皆姓が異なるが、これは造酒丞の祖父が岸蔵坊という名だったということ
から元々姓を持っていなかったのではないだろうか。羽柴秀吉などと同様伝来の姓を
持っていなかった故、下賜された姓などで名を残したのではないかと推察する。


・小瀬清長(?〜1574)

別名:三郎五郎清長・三郎次郎長清

小瀬三右右衛門尉の養子となり小瀬姓を名乗った。
織田信光の嫡男信成に仕え、春日井郡小幡郷にて五百貫の知行を得た。
天正二年(1574)9月、伊勢長島攻めに従軍。
織田信成は篠橋からの攻めに加わるが、苦戦し討死してしまう。この時清長は、
傷(病という説も)を負い陣中に留まっていたが、主君の討死を聞くと只一騎で
敵中に突入し、一揆衆を切り伏せていくが多勢に無勢、ついに討死してしまった。
なお、『信長記』を著した小瀬甫庵と小瀬清長は、同姓同郷である為一族である
可能性もあるが、定かではない。


・菅屋長頼(?〜1582)七尾城代・府中城主

別名:織田長、織田九右衛門、菅屋御長、九右衛門尉長頼、長行

信長の馬廻の統率者である一方、行政官としても腕を奮った。
当初は織田姓を名乗ったようだが、信長より菅屋姓を下賜され、菅屋長頼と名乗った。
様々な合戦に従軍するが、目立った軍功はなく、信長に付き従っていたか。
その生涯を通じ、信長の代表的側近としてその活躍を本分としたようだ。
元亀年間から天正初年にかけては、各種の奉行として政務に携わる姿は頻繁に
うかがわれえる。
また、織田一族の氏神として、古くから織田氏と関係を持つ越前織田大明神社
(剣神社)について下石頼重とともに長頼が担当した。このことからも信長からの
信頼が厚かったことが伺える。
本能寺の変の際、二条御所で討死。その子、角蔵・勝次郎もそれぞれ本能寺・二条御所
にて討死している。


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◆津田藤三郎(つだ とうさぶろう) 尾張古木城主

尾張織田一族だが、出自は不明。

織田家、柴田家、豊臣家、池田家に仕えた。
関ヶ原合戦時には信長の嫡孫・岐阜中納言秀信に重臣として仕えていた。
東軍による岐阜攻城戦の折、藤三郎は岐阜城総門(京町)口に布陣。
戦端が開かれ、瑞龍寺砦の戦闘で敗れ逃げてきた味方の兵をまとめて七曲口まで
引き上げようとしたところ、現在の岐阜公園入り口あたりで福島正則勢の追撃を
受け部隊は壊乱、撤退を余儀なくされた。
その日のうちに岐阜城は落ち、主君秀信は高野山へ追放された。

また、藤三郎は、天正十年の武田攻めにも従軍しており、
深志城の馬場信春を降し、平林蔵人が副将として守る牧之島城にも攻めかかったが、
一旦本城の上尾城に撤退させはしたものの、逆襲され捕らえられた。
その後、身柄は信長に送られたという。
連枝衆として、信忠とともに行動したのだろうか。
その関連で、秀信にも引き続き仕えたということか。

津田家は、関ヶ原合戦後に池田氏家老・荒尾氏の斡旋で池田輝政に仕え、
以後忠継、忠雄、光仲(忠雄の子、鳥取藩藩祖)と続き元禄5年以降家老となり
7千石を知行し維新を迎えた。

なお、関ヶ原後池田家に仕えた藤三郎の諱は元綱ともあるが、「藤三郎」は幼名と
される為、その子・元房をさしているのかもしれない。
また、『綿考輯録』によると、細川家臣・沢田次郎助という者が、岐阜攻城戦時に
津田藤三郎元房と斬り合い、討死したという記事もあるが出典の信憑性は心許無い。

・系図
元信−元定−元綱−元房−元匡−元茂−元長−元善−元知
−元武−元義−元謨−元貞−元統−元亮−元永−・・・

鳥取県郷土人物文献データベースを参照


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◆織田吉清(?〜?)

別名:修理亮。

信長の奉行人。一族かもしれないが、連枝としての活躍は見られず、
奉行としての地位もそれほど高くはない。
永禄十一年十月六日、志水長次・奥村秀正・跡辺秀次との連名で、
法隆寺寺家に対し家銭銀子百五十枚の納入を命じた記録が残る。


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◆織田甲斐守(?〜1570)

元亀元年、堅田の戦いで坂井政尚とともに討死。
信長の馬廻りであろうか。


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◆織田久三郎(?〜1574)

天正二年、九月二十九日長島攻めに従軍して討死。
織田一族だが詳細は不明。


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◆津田盛月(?〜1593)

別名:織田信重。信勝。外峯四郎左衛門。
通称:織田左馬允。津田四郎左衛門尉。隼人正。

父:織田刑部大輔宗養
兄:中川重政
弟:木下嘉俊、織田善右衛門
妻:織田勝左衛門尉の娘
子:信任。信成。織田忠辰室。娘。

織田信次の孫とする系図が多いが、年代的に疑問が残る。

早い時期から兄とともに信長に従い各地を転戦。
順調に出世する兄とともに黒母衣衆の一員となるなど、その地位も安定していた。
しかし、元亀元年安土城を任された兄と、長光寺城主柴田勝家との領地が
入り組んでおるため抗争が起き、盛月は勝家の代官を斬り兄共々改易となった。
その後、秀吉に召されて姫路に至り「外峯四郎左衛門」と名を改めて仕える。
しかしその所在を信長に知られ、危うく切腹を命じられるところだったが、
本能寺の変勃発により救われた。天正十二年小牧・長久手の陣に従軍。
この長久手の戦いにおいて、弟・木下嘉俊を失う。この後、津田姓に改める。
天正十五年九州征伐後、功を賞され山城で三万五千石を与えられ大名となる。
文禄二年、伏見にて死去。家督は長男・信任が継いだ。


・津田信任(?〜?)

別名:与左衛門。左近将監。信秋。長意。

父:津田盛月
弟:津田信成
子:掃部助信次。信一。

父とともに羽柴秀吉に早くから仕えた。天正元年には黄母衣衆に任じられた。
父の死後、家督を継ぎ山城三牧城主となる。
しかし、同年起こった山科における洛外千人斬り事件の犯人として捕らえられ、
身分を剥奪され前田利家に預けられた。
これは、信任が豊臣秀次派であったことから石田三成ら奉行から讒言され、
失脚に追い込まれたとも言われているが、真相は不明。
前田氏に預けられた後の行方は不明。家督は弟の信成が継いだ。


・津田信成(1562〜1645)

別名:二郎左衛門。次郎左衛門。長門守。高勝。元勝(?)

父:津田盛月
兄:津田信任
息:元勝。新兵衛。十郎左衛門。信季。刑部数馬。
娘:津田右近室。堀尾帯刀猶子。高木左門室。ほか

津田盛月の次男。
父や兄とともに秀吉に仕え、小牧長久手や小田原征伐に参加。
文禄元年朝鮮出兵では名護屋城に在陣し、西の丸御前備衆に任ぜられた。
文禄二年、父が死に兄が家を継ぐが、兄が失脚した為津田家の家督を継いだ。
この時、三万五千石から二万石の減封となった。
関ヶ原合戦では東軍に与し、西軍の戸田勝成と奮戦して武功を挙げた。
そのため戦後は所領を安堵され、御牧(三牧)藩主となる。
しかし、慶長十二年、美濃清水藩主・稲葉通重と共に京都祇園で遊んだ折、
酒に酔い茶屋の婦女に狼藉を働いた経緯を咎められ、改易された。
また一説には、関ヶ原の戦いで戸田勝成を討ったのは織田長孝の功績であったが、
それを信成が横取りしたことを咎められたともいう。
正保二年、下野足利にて死去。享年八十四。
子息・新兵衛は金森出羽守に仕えた。


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◆織田寛貞(?〜?)尾張楽田城主

別名:筑後守

父:織田常寛
兄:織田寛故
子:織田忠寛

清洲三奉行藤左衛門家の庶流。
織田久長の流れを汲むとされる。
1548年犬山城主織田信清と共謀し、織田信秀と抗争。
しかし1562年に信長についた信清に攻略され、城を失い没落した。
子息の忠寛は信長に仕えた。


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◆織田忠寛(?〜1577)尾張日置城主

別名:丹波守。掃部助。津田一安。


父:織田寛貞
妻:加藤冶部左衛門尉娘
子:津田掃部助忠遼、信昌

信長に仕え、伊勢侵攻で活躍、1568年に伊勢安濃津城主。
北畠家に入った茶筅の後見を努め、長く輔弼した。
所領は本貫尾張のほか、近江に三千五百石程度を領す。
また、甲斐武田氏との交渉にもしばしば赴いている。
その他、越前一向一揆征討戦等にも従軍しているが、
北畠一族の粛清に慎重な姿勢であった為、信長に疎まれ
同氏粛清の翌年、田丸城にて誅殺された。
尚、滝川雄利などの讒言によるものともされる。
子の津田掃部助は信雄に仕えた。


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◆織田寛故(?〜1550)尾張小田井城主

別名:藤左衛門尉。兵部大輔。寛政。

父:織田常寛
弟:織田寛貞
子:織田寛維、織田寛廉

清洲三奉行藤左衛門家第二代・四代当主。
常寛の嫡男で小田井城主となる。
嫡男・寛維に跡を譲ったが早世した為四代目も兼ねた。
後、次男・寛廉(信張)に譲った。


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◆織田寛維(?〜1542)

別名:藤左衛門尉。丹波守。

父:織田寛故
弟:織田寛廉(信張)

清洲三奉行藤左衛門家第三代当主。
日置城主であったが、父の後を継ぎ小田井城主となった。
天文十一年大垣攻めに参戦し、討死した。
遺領は一旦父が継ぎ、後に弟・信張が継いだ。


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◆織田善右衛門(?〜1570

父:織田刑部大輔宗養
兄:織田駿河守。織田左馬允。織田薩摩守。

中川重政や津田盛月らの末弟。
元亀元年越前金崎攻めで討死した。


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◆織田謙亭(?〜?)

別名:左近入道。左近将監。津田直政?

本圀寺合戦で門前を固め三好軍と戦った中にその名が見える。
織田信包の家臣に、津田左近将監という人物がいるが関係は不明。
同一人物である可能性もなくはない。
左近入道とあるように謙亭は出家後の号であろうが、実名は不明。
元亀元年に吉田兼和を訪れたり、同二年に岐阜より上洛したりしており、
信長の側近の一人のような役割を担っていたか。


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◆織田三位(?〜1554)

尾張守護代織田大和守に仕えた。
織田彦五郎や坂井大膳らと共に斯波義統を殺害し信長と敵対。
清洲城外の戦いの折、斯波氏家臣に討たれた。
大和守の下で重臣となっていたことから、その流れを汲む一族と思われる。
先代か先々代の庶流である為、養子である彦五郎を軽視したか。


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◆織田勝左衛門(?〜?)

稲生の戦いで信長に味方して奮戦した中に名が見える。
織田造酒丞とともに終始信長を支持していたようだ。
娘があり津田盛月に嫁いだ。


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◆織田信張(1527〜1594)尾張小田井城主、坂井戸城主
大永七年(1527)〜文禄三年(1594)九月二十二日没。

通称:又六郎、太郎左衛門、佐兵衛。
別名:寛廉、津田信弘、信純?

父:藤左衛門寛故(寛政)
兄:藤左衛門寛維

清須守護織田氏の三奉行の藤左衛門家の次男。父と兄の戦死後家督を継いだ。
妻は信秀の弟で犬山城主の信康の娘。
信長に仕えたとき、一字を与えられ「信張」と改めたという。
早くから信長に仕えたが、記録は少なく「信長公記」では弘治年間の盆踊り興行と、
元亀元年の比叡山攻めに登場する。
天正四年十一月二十一日、信長が内大臣に昇進してこのとき信張も
従五位下左兵衛佐に叙任される。
天正五年二月、雑賀攻めに従軍して戦後、佐野砦守将として置かれる。
以後、和泉・紀伊の軍政を任されていたようである。
いつごろあたりかは定かではないが天正十年(1582)以前には、和泉国岸和田城を
居城としていたらしい。
天正十年、本能寺で信長が横死すると紀伊の国人たちが蜂起して蜂屋頼隆と
鎮圧に努めた。
その後、経緯は不明だが信雄に仕えて尾張国の小田井城に戻ったようである。
天正十二年、信雄の臣として土佐国長宗我部家臣・香宗我部親泰と連絡をとっているが、
これ以後の動静は定かではない。
天正十五年、肥後国で佐々成政改易後、秀吉に八代城を与えられたが辞退したという。
すでに信雄から離れていたのだろうか。
文禄三年(1594)九月二十二日、六十八歳で大津にて没した。

子に信直、孫に信氏と忠辰それに女が一人いる。
孫娘は牧野宮内少輔の室となった。


・織田信直(1545?〜1574)尾張於台(小田井)城主

通称:又六郎、又八郎?

母は信長の別腹の妹。
父の信張とと行動を共にしていた。天正二年(1574年)7月、長島一向一揆攻めに従軍。
同年9月29日、激戦の末討ち死にした。


・織田信氏(?〜1585)

通称:竹千代、角蔵

信直の嫡男。
美濃国飯場城の城主遠山友賢が死去した際に子がいなかったので、
信氏が命を下し同族の飯場城主遠山友勝に跡を継がせたという。
天正九年(1581年)の馬揃えでは連枝衆として参加した。
他の実績は不明。祖父よりも早く亡くなっている。
また、石田三成に重臣として仕えた津田清幽は信氏の次男とも。


・織田忠辰(ただとき・ただたつ)尾張於台城主

幼名:虎千代
通称:監物、備後守、兵部大輔

信直の次男。最後の於台城主という。津田も称した。
織田信忠、信雄、豊臣秀吉、秀頼に仕え、慶長十八年に亡くなった。
天正十二年(1584年)に起こった小牧・長久手の戦いの後、
羽柴秀吉によって於台城を追われ、この城は廃城になった。

子の織田信番(忠直)は豊臣秀頼後に池田忠雄に、知信は尾張徳川家に、
津田宗元は池田輝政、利隆、光政に仕えた。


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◆織田小藤次(?〜1582)尾張稲葉地城主

曽祖父に信長の叔父(大叔父)にあたる織田定政(津田豊後守)、
祖父は織田玄番充信平、父は桶狭間で討死した与三郎宗政。
元服は済ませていたと思われるが、諱は不明。信貞か。
連枝衆として信忠に従い各地を転戦。
本能寺の変の折、二条城にて討死した。
小藤次の死後、稲葉地城は廃城になったという。



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◆織田信家(?〜1582)

尾張上半郡、岩倉の守護代・伊勢守信安の次男。
兄は信賢。弟に剛可正仲、新十郎正盛。
信安が嫡子である信賢を差し置いて、信家に家督を譲ろうとした為
信賢らによって信安とともに追放される。
後に、信忠に仕え、武田攻めに従軍するが、高遠城攻めの時討死した。


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◆織田信弌(?〜1582)

通称:勘七郎。
別名:津田勘七郎。大橋勘七郎。

父:大橋重長
母:織田信秀娘・くらの方

兄弟:大橋長将。大橋信一。

尾張津島の有力土豪であった大橋重長と、織田信秀の娘との子。
織田姓を名乗り、馬揃えでは「御連枝衆」の8番目に行進した。
連枝として信忠に従い、本能寺の変の折二条城にて討死。
大橋家の家督は兄・長将が継いだ。


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◆織田七郎左衛門

岩倉織田伊勢守家家老。
永禄元年5月28日、織田信長が浮野表に攻め込むと、山内盛豊と共に出陣し、
1500の兵を指揮し、信長は彼らを「能き家老」と賞賛している。
永禄二年初春、織田信長の岩倉城攻めの中で織田信賢に開城を勧めた。


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◆織田源左衛門

岩倉織田伊勢守家家老。
織田七郎左衛門らと共に信賢に開城を勧めた。
因みに、当時の岩倉織田家の家老席次は、織田七郎左衛門を筆頭として
山内猪之助(盛豊)、源左衛門、堀尾忠助(泰晴)の順であったようだ。


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◆織田三四郎

近江大溝城主。
1590年或いは1595年から数年間城主或いは城代を勤めた。
京極高次か、もしくは豊臣秀次の家臣だろうか。
独立した大名とは考えがたい。地理的に豊臣本家の旗本かもしれない。


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◆織田清次(1547〜1617)

別名:津田正勝。刑部少輔。
子息:津田正忠。(養子)正俊。

中川重政の弟とされるが詳細は不明。
信長に仕え、滝川一益配下として神流川の戦いに参加。
一益失脚後は豊臣秀次に六千六百石で仕えた。
秀次没後は長谷川秀一、松平忠吉、前田利長に仕えた。
最終的に前田利常の時三千石の老臣となった。

子孫は代々加賀藩家老・津田玄蕃家として続いた。
明治維新の時、斯波氏に改姓(復姓)しているため、
織田氏ではなく斯波氏の流れであったようだ。


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