織田家・織田弾正一族


織田弾正家の流れを汲む織田一族を研究す。



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◆織田信澄(1558〜1582) 近江大溝城主

幼名:坊丸
通称:七兵衛
官途:−
初名:信重
別名:津田信澄

父:信勝(信行)
母:高嶋の局(父:備前守 和田某)
弟:勝三郎信糺、新八郎信兼

正室:某(明智光秀の娘)
子息:庄九郎信重(昌澄)、主水左衛門元信
養父:柴田勝家(養育係)、磯野員昌

父の信勝が信長に誘殺された後、信長の命令により柴田勝家の許で養育される。
その後、浅井家旧臣で高島郡一職を任されていた磯野員昌の養子となる。なお、
員昌には実子がいたため、北畠や神戸氏同様乗っ取り政策の一環と思われる。
員昌出奔(信長の勘気を被ったという説もある)の後は、近江高島郡を与えられ
大溝城主となった。織田家連枝衆の内、序列は信忠、信雄、信包、信孝に次いで
五番目という厚遇だった。
武将としての活躍は、越前の一向一揆討伐戦に参加した他、明智光秀の丹波攻め
を赴援している。その他、信長や信忠・信雄に従って各地を転戦したが、
その役割は遊撃部隊のようなものが多かったようだ。
本能寺の変の頃、四国攻めを命ぜられて大坂城に入ったが、変が起きた後、
従兄弟の信孝らに攻められて無念の死を遂げた。享年25。
信孝らの主張した明智氏加担という罪は冤罪であると思われる。
子孫は幕府旗本となり、幕末まで続いた。


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◆織田秀敏 (?〜1560)

通称:七郎、玄蕃允、玄蕃頭

織田敏定(良信?)の五男で、弾正忠信定の末弟。

秀敏は信長の大叔父として、若い信長の後見的立場を貫いており、
信長の舅である斎藤道三と書状を取り交わしていたことが散見される。
永禄三年、今川の侵攻に際し、鷲津の砦に置かれるが攻められ落城。
資料によって、討死したとも落延びたとも言われるが、一緒に篭った、
一族の飯尾定宗が討死していることから、一人生還したとは考え難い。

秀敏は嫡流信定(信貞)の弟にして、信秀の叔父、信長の大叔父という立場であるが、
一門としての地位はそれほど高くはなかったようで、名前の「秀」という字は、
甥である嫡男信秀の「秀」からもらったものだと思われる。
兄弟が多い場合、一門の末尾は、上段にいながら嫡流の下段よりも年下であったり、
年が近かったりする場合が多く、こういった名前が現れることが多いようだ。

余談であるが、弾正忠織田家には信秀以降、「秀」の字を頭に据えた名前の人物が
しばしば出てくるが、秀敏はその走りであったのではないだろうか。

子に津田秀重、孫に秀政
共に織田信長、豊臣秀吉及び徳川家康に仕え、
子孫は美濃国内三千石余の旗本として存続した。

天正2年3月、織田信忠によって、津田愛増が祖父の知行を給付されたとの記述がある。
そこでは愛増の祖父を津田玄蕃允としており、秀敏のことではないかと見る向きもある。
しかし、上で書いた孫の秀政の幼名が愛増で、津田愛増丸秀政となるのか、
愛増と秀政が別人あるいは兄弟だとか、または全く関係ないという可能性もあり
よくわかっていない。


・津田甚三郎(?〜?)

織田玄蕃允やその孫津田愛増の親族。
浅井攻めの最中、虎御前山の陣にて信長に勘当され、領知を没収される。
天正二年(1574)三月、没収地の一部が津田愛増に渡された。


・津田愛増(?〜?)

織田玄蕃允の跡職の知行・被官・家来などを安堵された。
この玄蕃允は、「公記」や「浅井文書」などに見える織田秀敏であろうか。
それならば、信長とは又従兄弟の関係ということになる。


・津田秀政(1546〜1635)

別名:小平次。正秀。興庵。

織田秀敏の孫で津田秀重の子。
妻は滝川一益の娘という。
信長に仕え、命により滝川一益に属し上野松坂城を預かるという。
一益が秀吉に負けての没落すると、信雄に仕えたらしく、
伊勢三重郡高角郷にて八百貫文の知行を受けている。
その後、秀吉に馬廻として仕えたようで肥前名護屋城本丸番衆の中にその名が見える。
慶長五年、家康の上杉攻めに従い、関ケ原の戦いにも従軍。
戦後三千石を与えられ、計四千十石余を食んだ。
その後、西尾吉次とともに、国々の地図と租税の員数を調べた。
大坂の両陣にも従軍した。


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