「織田信長と同時代に生きた彼の一族たちの足跡」
                                         信親


  戦国時代、天下取りに駆け抜けた風雲児・織田信長。彼のなしたことは偉業とされ、
 よく知られている。尾張に生まれ、今川義元を討ち取り、尾張を統一し、足利義昭を
 奉じて京に入り、天下にその名を知られた。その後、足利義昭を追放して室町幕府を
 崩壊させ、他の敵対勢力を次々に叩き伏せ、織田政権を堅実なものとしていったが、
 志半ばで本能寺の変でたおれた。これが織田信長のおおよその足跡である。
  この織田信長をだした織田家であるが、その他の彼の一族についてはそのほとんどが
 あまり知られてはいない。一般に知られているのは、父・信秀や、父の死後信長に敵対
 し、謀殺された弟・信行、後々まで有楽という名の茶人として知られた、弟・長益。
 あとは息子たちの一部(信忠・信雄・信孝)くらいであろう。信長には十一人の兄弟と、
 五人の叔父たちや彼らの息子たち、つまり信長の従兄弟にあたる人たちもけっこういた
 のである。私はそのあまり知られていないであろう、信長の一族のなかでも特に、彼の
 兄弟たちを中心に足跡を辿ってみようと思う。
  まず、戦国時代の織田家について述べる。織田氏の拠る尾張国は、守護斯波氏の下、
 守護代織田伊勢守家と守護代織田大和守家とがあった。伊勢守家は尾張八郡のうち
 北四郡を領していたので上織田家とも俗称された。それに対し、大和守家は下織田家と
 呼ばれた。下織田家の大和守家は実権を失った守護・斯波氏を代々奉じ清洲城にあり、
 大和守家には執務実行を行う三奉行がいた。すなわち、織田因幡守家・織田藤左衛門家
 ・織田弾正忠家、である。いずれの家も大和守家の庶流であったようだ。このうち、
 弾正忠家が、信長を生んだ奉行家であるが、三奉行の中では最も格下であったようである。
 しかし、信長の祖父信定(信貞)の代に三奉行家にうちで最も強大な力を有するようになり、
 勝幡城を居城とした。信定の嫡男が、信長の父・信秀であるが、信秀には信康・信光・
 信実・信次・信正(掃部頭)という弟たちがいた。信秀は武勇優れ、弟たちや他の三奉行家
 を指揮して、美濃や西三河へと進出した。のちに信秀は弾正忠から備後守に名乗りを変える
 が、織田一族のなかでは「三郎殿」と呼ばれていた。信秀は武勇の人であったが、蹴鞠や
 和歌・謡なども好み、また、たびたび狩猟にも出かけていたことが史料により散見できる。
 ここで上織田家の織田伊勢守家についてみてみる。伊勢守家は岩倉城にあり、応仁の乱時に、
 守護斯波氏の内紛にともない、織田家も分裂して伊勢守家と大和守家に分かれたのであった。
 信秀の時代、伊勢守家当主は織田信安であったが、彼には信秀の妹が嫁していたので、両者の
 関係は良好で、幼いころの信長もたびたび義理叔父のいる岩倉城に遊びに行き、信安と
 ともに芸能を楽しんだりしていたようだ。信長の時代になっても信安は面と向かって敵対は
 せず、まず平和であったが、信安の子・信賢が信安を追放し、美濃や尾張の信長敵対勢力に
 加担したため、最終的に信長に滅ぼされた。信安は岩倉城陥落の後、隠居地を信長に与えられ、
 静かに余生をおくったと史料にみられる。関ヶ原の合戦後は、土佐山内家を頼ったと伝える
 ものもある。(信安は山内一豊の父・盛豊の主筋にあたる)
 そして信長の時代となるのであるが、その信長の時代にかぶる、叔父・兄弟たちについて、
 史料をもとに要約したものを記す。
  織田信康。犬山城主、信秀の弟で信秀と同じく武勇の人であったが、天文十六(1547)年、
   信秀が美濃に侵攻し、斎藤道三と戦った時、織田因幡守達広・織田主水正などとともに討死した。
   息子で信長とは従兄弟にあたる織田信清があとを継いだが、最終的に信長と対決、敗北して
   追放された。
  織田信光。守山城主、のち那古野城主。信秀の弟で、信秀の没後はその嗣子信長を補佐し、
   反勢力の駆逐に働いた。天文二十三(1554)年には信長と謀って守護代織田大和守氏の
   居城清洲城を奪い、信長から那古野城を譲られた。しかし、わずか半年後に家臣の坂井孫八郎に
   殺害された。子に信成(のぶしげ)・信昌・仙千代がいるが、いずれも天正二年の長島一向一揆
   攻めで討死したとある。
  織田信実。『信長公記』首巻により、天文十一年八月十日の三河小豆坂の戦いに、兄・信秀に
   従軍して活躍した、ということ以外の動向はあきらかでない。
  織田信次。孫十郎と称す。天文二十三(1554)年、信光のあとをうけて、守山城主になる。
   しかし、翌弘治元年六月二十六日のこと、信次の家臣・洲賀才蔵というものが信長の弟・秀孝を
   誤って弓で射殺するという事件がおこった。すると信次は信長の報復を恐れて逐電してしまい、
   守山城には信長の弟・秀俊(信時)を入れたが、弘治二年五月二十六日、秀俊が殺害されると、
   信長に赦免されて守山城主に復帰した。天正二(1574)年七月、伊勢長島一向一揆攻めに
   信忠に従軍するが、討死した。子に孫十郎というものがいたが、正確な名前は不詳。
 以上、織田信秀の弟たちの足跡について記した。次に、信長の兄弟たちを記す。
  織田信広。系図や一部の資料には信廣とあるが、ここは信広でいく。三郎五郎、大隅守を称した
   信長の腹違いの兄。天文十七(1548)年、かつて父・信秀が攻略した三河安祥城の城将と
   なるが、翌天文十八年、安祥城の陥落によって一時駿河今川氏の人質となっていたが、尾張に
   抑留されていた松平竹千代(のちの徳川家康)との交換によって尾張に帰国した。帰国後の動静、
   居住地などは明らかではないが、信長弟・勘十郎信勝(信行)が反旗を翻した弘治二年には、
   美濃の斎藤義龍に呼応して兵を尾張へ侵入させ、信長を挟撃して清洲城を奪う密約を結んでいたが、
   信長に察知され未遂に終わり、信長に降伏を申し入れ、許された。その後は信長に重用され、
   天正元(1573)年四月の将軍足利義昭との抗争時には、信長の名代として義昭と会見して
   和平に奔走した。この後に大隅守を称した。翌天正二年七月、伊勢長島一向一揆攻めで先鋒として
   出陣するが討死した。
  織田信勝。信長の同腹の弟。勘十郎、のちに武蔵守を名乗る。『信長公記』では「後舎弟勘十郎殿」
   とあり、諸系図にはいずれも「信行」とあるが、当時の文書には「信勝」が多く、のちに達成・
   信成とも称したという。ここでは信勝とする。信勝については、信秀の死後、跡目を巡って信長
   と対立、二度までも謀反を企み、二度目にはついに信長によって殺されてしまったことは有名である
   と思う。よってここでは詳しくは述べないことにする。信勝には三人の子があり、特に嫡男・信澄は
   聡明な逸者で信長の右腕として活躍したが、本能寺の変が起こると、明智光秀の女婿であったがため
   に大坂城で信孝に攻められ、自害した。その子、昌澄に始まる子孫は徳川幕府の旗本として存続した。
  織田信包。天文十二(1543)年生誕、慶長十九(1614)年七月十七日、七十二歳で没した。
   はじめ、実名を「信良」と名乗った。確証はないが、土田御前の実子と思われる。その理由を、
   瀧喜義氏がその著書『武功夜話のすべて』で述べているので、ここに記す。"実子の根拠は、
   本能寺の変後、豊臣秀吉に従い天正十一年安濃津城主となったとき、一時はお市の方(天文十六年
   生まれ)親子を預かり、晩年の土田御前も信包を頼ったことにある。実子・同腹の兄弟というのが
   頼った理由という見解も成り立つわけである。"また、"天正九(1581)年二月の「馬揃え」
   では連枝衆として、信包は十騎を従えてこの晴れ舞台に登場する。他に、神戸信孝(信長三男)
   ・織田信澄(信長甥)の両者が各十騎とあり、信長兄弟では信包のみが軍団長として待遇を
   受けた"ことによる。つまり、真に血の繋がった信包だからこそ、このように信長から重視された
   という見解である。この見解は妥当のものだと私はみる。年齢的にもさほど離れていないことや、
   瀧氏の記した史実からもそう考えて問題ないとみる。
  織田信治。天文四(1545)年生誕、元亀元(1570)年九月二十日、二十六歳で没す。
   元亀元年九月、近江の宇佐山城が浅井・朝倉連合軍に急襲されたときに、信治は十九日の未明に
   京都から兵二千を従えて救援に駆けつけた。翌二十日、信治は宇佐山城将森可成とともに敵を
   迎え撃ったが、衆寡敵せず、敵の猛攻のまえに討死した。
  織田秀俊。安房守、諸系図では信時と記す。信長の庶兄・信広の同腹の弟という。弘治元
   (1555)年七月六日、叔父の孫十郎信次の出奔後に信長から守山城を与えられた。しかし、
   翌弘治二年六月、家臣の角田新五朗の謀反にあい自害する。
  織田信興。彦七朗と称した。元亀元(1570)年十一月、伊勢長島の一向一揆が、信長が
   近江の志賀の陣で浅井・朝倉両氏と対峙している隙を狙い、信興の居城小木江城を急襲した。
   信興は支えきれずに自害し、城は一揆勢が占拠してしまった。他の実績は明らかでない。
  織田秀孝。信孝と記す系図もあり、喜六郎と称す。弘治元年七月、秀孝が龍泉寺の傍らの松川の
   渡しを馬で通り過ぎたところ、守山城主の織田信次の家臣洲賀才蔵に誤って弓で射殺された。
   『信長公記』は、秀孝の容貌について、"御歳の齢十五・六にして、御膚は白粉のごとく、
   たんくわんのくちびる柔和のすがた、容顔美麗人にすぐれて、いつくしき共中々たとへにも
   及び難き御方様なり"と記している。容姿端麗の美少年だったようだ。
  織田信照。尾張にあった信照は、沓掛城主という位置にあり、尾張の東側に所領を形成していた。
   天正九年二月末と三月上旬の馬揃えでは、連枝衆である織田一族のなかで、長益・長利らと共に
   行進している。本能寺の変後は信雄に仕えたが、没年も定かでなく、足跡は不明である。子息の
   織田市之丞は本能寺の変で戦死した。
  織田秀成。半左衛門尉と称した。事績は明らかでなく、あまりに若くして亡くなったのであろう。
   天正二年七月、伊勢長島一向一揆攻めに信忠に従軍するが、討死した。
  織田長益。天文十六(1547)年生誕、元和七(1621)年十二月十三日、七十五歳で没した。
   一般に織田有楽の名前で知られる。天正九(1581)年正月、信長は内裏の東馬場で天皇臨席の
   もとに馬揃えを行い、長益は「御連枝衆」の一人として行進した。信長より十三歳年下で、信長の
   合戦に従軍したのは武田攻め以外になく、天正十年の武田攻めでは、信州深志城(松本城)の開城に
   伴う受け取り役を演じている。本能寺の変では信忠の軍勢にあって二条御所に信忠とともに入るが、
   脱出して命拾いをする。のち、信雄に次いで秀吉傘下に属して豊臣大名に列し、茶人として大成する。
   子孫は徳川幕府末まで大名家として存続する。
  織田長利。長則・長規とも記し、又十郎を名乗り、津田を苗字とした。『信長記』には、
   "天正二年にはじまる長島一向一揆潰滅戦に兄たちとともに従軍し、最後の長島城海上攻撃にも
   加わった。のち天正九年春の馬揃えにも織田一族として参列している"とある。本能寺の変では
   信忠の軍勢にあって、信忠とともに討死。何歳であったかは不明。
 信長の子供達もたくさんいるが、時期がやや下がるのでここでは記述しない。また、信長の叔父・
 兄弟たち以外で、信長に重用された織田一族を次に記す。
  織田信張。大永七(1527)年生まれ、文禄三(1594)年九月二十二日、六十八歳で没す。
   守護代大和守家の三奉行家の一つ、織田藤左衛門家の人で信長の義理従兄弟にあたる。早くから
   信長に仕え、元亀元年九月の南近江での浅井・朝倉両氏との対峙では、大津の唐崎を守備した。
   天正四年十一月、信長の内大臣任官に伴い、従五位下に叙せられ、されに翌五年正月二十日に
   左兵衛佐に任官し、正月二十六日には朝廷にそのお礼として物を献上した。その年の紀伊雑賀攻め
   には主力となり、佐野に駐留。この頃、岸和田城を与えられたらしい。本能寺の変時の動向は
   不明だが、以後は織田信雄に仕えた。天正十六年、肥後の佐々成政の滅亡後に豊臣秀吉から
   八代城を与えられたが固持したという。近江の大津で死去。なお、天正九年二月の馬揃えには、
   孫の竹千代信氏(母は信長の妹)が御連枝衆の一員として行進した。
 他に、史料に色々な名前が見られるが、系図や史料を眺めていて気になったのが、姓である。
  織田氏の庶流・傍流は津田の姓を名乗るものが多いのである。また、史料によって異なるが、
 どうやら信長が一つの政権をつくりあげた時、織田姓に重みを出すために、嫡流以外の織田姓を
 禁じたらしい。その時、傍流(養子除く)が使用したのが、苗字(地名)である津田という姓で
 あったのだ。このことから、史料・系図によって人物の名乗りが異なることにも合点がいく。
 嫡流以外は織田姓を禁じたはずなのだが、実際はそう徹底はされていなかったようで、津田を
 称したのは、叔父・信光の一族(従兄弟・信成ら)と他一部に過ぎなかったようである。その他の
 名乗りであった者も後に復姓したりしていることから、あまり大きな問題とはみられていなかった
 のではないかと思えるのである。
  以上、信長とその一族たち、主に兄弟たちにスポットをあてて述べてみたが、やはり感じたことは、
 信長という巨大な光の影になって、その周辺の者達はほとんど記録に残っていないということである。
  当時からみると史料の少なさは普通で、存在が確認できるだけでもいい方と思わなくもないが、
 信長とともに栄華を誇ったであろう、織田一門衆の足跡がかすれていることにやや寂しさを感じた。
 今回色々調べてみて、知らないことがたくさん分かった。歴史の影に隠れていても、確かにその時代
 に生きた人々の足跡を見ることが出来たように感じられ大変良かった。最後に、歴史上で影が薄い
 といわれる人たちに思いをはせながら終わりにする。


 ≪参考文献・資料≫
  (太田牛一)中川太古・訳『(現代語訳)信長公記 上・下巻』新人物往来社、'92
  (前野家文書)加来耕三・訳『(現代語訳)武功夜話、信長編』新人物往来社、'92
       〃      『     〃    、秀吉編』  〃   、'92
  瀧喜義        『「武功夜話」のすべて』    新人物往来社、 '92
  岡田正人       『織田信長 総合辞典』     雄山閣、   '99
  西ヶ谷恭弘      『考証―織田信長辞典』     東京堂出版、 '00
  西ヶ谷恭弘      『図解雑学―織田信長』     ナツメ社、  '02





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