−長崎奉行−
                       信親



  長崎奉行というものは、元々豊臣秀吉が貿易で栄えていた長崎を直轄地にするにあたって、
近隣の大名にをの地の采配を任せたことから始まっている。
その時の長崎奉行(この時は代官であった)は、龍造寺氏に代わって肥前を支配していた
鍋島飛騨守直茂であった。その後、文禄元年新たに秀吉から長崎支配を任された
肥前唐津領主の寺沢志摩守広高は、長崎奉行と言われたとある。
 江戸時代になって、江戸幕府の一機関としての長崎奉行は、老中直属の遠国奉行である。
遠国奉行とは、江戸以外の幕府直轄地の支配にあたる役の総称で、京都、大坂、伏見、
駿府、などの町奉行の他、奈良、山田、日光、佐渡などの要地、さらに長崎を始めとして
浦賀、神奈川、箱館、堺、新潟、下田、兵庫などの重要港湾などの奉行がこれにあたる。
長崎奉行の任務は、幕府の直轄都市長崎の支配であるが、その実務は町年寄以下の
いわゆる地役人に委ね、むしろ唐蘭貿易を管理することに重点があるというものであった。
 秀吉の頃と違い、江戸幕府から任命される長崎奉行は、幕末の大村藩主は例外として、
旗本中心であった。
 長崎奉行とは、長崎の町の行政官・司法官であるとともに、外敵の侵入および
キリスト教に対する警備司令官であり、また貿易を管轄する商務官でもあった。
幕末には、開国を要求して来崎する外国人の迎接をするなど、外交官としての側面もあった。


 長崎の地が、秀吉の切支丹宣教師追放令によって、公領となり、鎖国以後はわが国唯一の
開港場として発展することになる。天正十六年(1588)に鍋島直茂が代官となり、
徳川幕府の成立とともに、幕府は長崎を直轄地として側近の家臣をもって奉行に任じた。
しかし、これら初期の奉行は、長崎に常駐することなく、中国、オランダなどの外国船が
入港する時期、二、三ヶ月間長崎に来て役目を処理し、外国船が出港すれば江戸に引き上げる
のを通例としていた。そこで、実際の長崎の町の政治は、いわゆる内町(昔からある町)は
町年寄り、つまり奉行直属の役人がこれにあたり、開港以後に新しく開かれた外町は幕府が
任命する代官によって支配され、内町では初めから一種の自治が認められていた。
 貿易が盛んになり、外国船が頻繁に出入りするようになってから、奉行は一年あるいは
二年交代で常駐となったが、町年寄りや地役人の自治に対する発言力は次第に強大となって、
奉行の力をもってしてもいかんともし難い実情にあった。
 十八世紀から十九世紀にかけて、イギリス、フランス、ロシア、アメリカの勢力がアジアに
進出して、通商貿易をめぐる外交問題が繁く起こり、長崎は徳川幕府外交の第一の拠点となった。
 かくして鎖国以来、近世を通じ、世界に開かれた唯一の日本の窓口であり、長崎における幕府
の代表である長崎奉行は、外交、貿易統制、キリスト教禁圧の表面にたって世界の列強と
対応することとなり、長崎の地は軍事、外交、貿易上、益々重要性を加えて、幕府は優秀な人物
を奉行に任ずるようになった。
 幕藩体制下における幕府の軍事権は、長崎奉行を中心に西日本を統一する大きい力を形成して
いたのである。維新に際して、長崎裁判所における九州鎮撫総督も、この幕藩体制下の長崎奉行
を中心とする軍事権と同等のものを保持していたと思われる。



  参考文献 
   『長崎奉行』外山幹夫 著、中央公論社
   『日本史辞典』角川書店
   『長崎県史 近代編』



inserted by FC2 system