−河津伊豆守−
                       信親



 最後の長崎奉行として着任したのは、河津伊豆守祐邦であり、彼は「曾我兄弟の仇討ち」
で有名な工藤祐経の子孫である。
長崎奉行になる前に彼の主な経歴は、箱館奉行支配調役として箱館奉行を助け、北蝦夷の
開拓に努めたり、五稜郭の築造に功があった。その後九月外国奉行となり、幕府の攘夷の
体面を保つため横浜を鎖港させようとフランス公使と会談したり、その交渉などのために
欧米差遣の副使となりヨーロッパに行った。しかし、逆に開国の必要性を痛感し、
パリ約定調印後、予定を繰り上げて帰国、幕府に建議したが、忌憚に触れて免職、
逼塞を命ぜられた。その後許されて歩兵頭並となり、関東郡代、勘定奉行並を経て
長崎奉行に命ぜられた。
 この経歴から分かるとおり、彼は既に世界の情勢がどのようなものであるか理解しており、
禁教・鎖国体制には批判的であった。彼は、キリシタンに対しても寛大な措置をとった。
幕府の例に背くわけにはいかなかったので、改宗は求めたが、厳しく糾弾・弾圧すること
はなかったのである。

 奉行脱走・崩壊

 伊豆守は、慶応三年(1867)八月十五日長崎奉行となった。
長崎に着任したのは十月十一日。
 河津伊豆守が長崎に着任したその月、幕府は大政奉還を行った。続いて翌四年正月、
鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したことを知った伊豆守は、長崎の町が混乱するのを
避けるためとしてひそかに長崎から江戸へ退去する意思を固めた。
 慶応四年一月十三日、その年の長崎港警備当番であった筑前黒田藩の長崎聞役栗田貢を
奉行所に招き、長崎からの退去の意思を表明した。栗田は、討幕派の薩摩藩の聞役
松方助左衛門(正義)、土佐屋敷の海援隊長佐々木三四郎(高行)を招き、事後のことに
ついて伊豆守とともに密かに打ち合わせをした。十四日、河津伊豆守は奉行所の一同に
布達を出した。それは、西役所は海岸に近く、無用心であるため、立山奉行所にこれを
まとめるため移転する、というものであった。
 この頃は外国人との接触の機会が増え、西役所の方が立山奉行所より重んぜられて
いたらしい。十四日早朝から立山奉行所への引越しが始まった。
 十五日朝、奉行所から地役人の主だったものたちに布告がもたらされた。それは、
鳥羽伏見の地で容易ならざる事態が生じたので、ひとまず奉行は当地在勤の支配向きを
召し連れ、江戸表へまかりこすことにする、というものであった。
 河津は守衛の村尾氏次というものを伴なって西役所から出て、イギリス船に乗り込んだ。
慶応四年一月十四日夜十一時頃のことであった。
 こうして河津奉行の長崎脱出により、長崎奉行所は事実上崩壊した。
 ついで慶応四年一月二十四日、河津伊豆守はその職を免ぜられた。さらに、二十五日、
長崎奉行支配組頭中台信太郎が長崎奉行並に昇任し、奉行所の残務を取り仕切ったが、
同年二月二十三日にその役を免ぜられ、(『柳営補任』)ここに長崎奉行所はその歴史
の幕を閉じたのである。

 のちに勝安房守(海舟)の談として伝わるところによると、河津は維新後、
東京神田の万世橋の付近で馬車会社を起して失敗したという。その後のことは
伝わっていない。


   <参考文献>
    『長崎奉行』    外山幹夫、中央公論社
    『長崎ものしり手帳』永島正一、葦書房




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