豊臣秀吉とその一族


◆豊臣秀長

天文9年〜天正19年(1540〜1591年) 
父:木下弥右衛門(義父:竹阿弥) 
母:なか(天瑞院) 
兄:豊臣秀吉 
姉:日秀(とも) 
妹:旭(あさひ) 

小竹・木下小一郎・木下長秀・羽柴長秀・羽柴秀長・豊臣秀長 
従五位下美濃守→(宰相)→従四位上参議右近衛権中将→従三位権中納言
→正三位中納言→従二位権大納言 

近江浅井8千500石。 
但馬7郡10万5千石。 
但馬・播磨25万石。 
紀伊・和泉64万石。 
紀伊・和泉・大和108万石。 

正室:智雲院(毛利輝元養女?)
子女:おきく(秀保室)、大善院(毛利秀元室) 
養子:秀保、仙丸

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◆豊臣秀次

永禄11年〜文禄4年(1568〜1595) 
父:三好吉房(一路) 
母:日秀(とも) 
弟:小吉秀勝・秀保 

義父:三好康長・豊臣秀吉 
義弟:宇喜多秀家・羽柴於次秀勝・羽柴秀康・羽柴秀俊・八条宮智仁親王 
義兄:羽柴石松丸秀勝・三好康俊 

治兵衛・孫七郎・三好信吉・三好秀次・羽柴秀次・豊臣秀次 
従四位下参議→従三位権中納言→従二位大納言→正二位内大臣、関白→左大臣を兼任。 
天正11年河内北山2万石。 
天正13年近江八幡43万石。 
天正18年尾張・北伊勢五郡100万石。 

正室:右大臣菊亭晴季の娘 
側室:最上義光の娘・駒姫、淡輪徹斎隆重の娘・小督局、大島新左衛門の娘・お国、など他多数 
子息:仙千代丸、土丸、百丸、十丸、水丸、甘丸 
子女:姉小路氏室、真田信繁(幸村)室(四男幸信母)隆清院、拾許婚など

豊臣秀吉の甥(姉・日秀の子)。はじめ、三好康長(笑岩)に養子入りして
三好信吉(みよし のぶよし)と名乗っていたが、後に羽柴秀次と改名。 
本能寺の変後、織田信長の後継者として台頭する羽柴秀吉(豊臣秀吉)の
数少ない肉親であることから重用され、近江国の一部40万石余を領した。
総大将を務めた長久手の戦い(天正12年)において岡崎奇襲部隊の大将として進軍途中、
逆に徳川家康の奇襲攻撃を受け、大敗する失態を演じるものの、その後は四国征伐や
小田原征伐において軍功をあげ、居城近江八幡の城下町運営でもその手腕を発揮した。
天正18年(1590年)に織田信雄除封後の尾張・伊勢に転封され、清洲城主となる。 
天正19年、嫡子鶴松を失った秀吉に関白職を譲られて聚楽第に居住し、
秀吉との間に二元政治をひく。その後、朝鮮征伐に専念する秀吉の代わりに
内政を司ることが多かった。 
文禄元年(1593年)、秀吉に新たな子秀頼が生まれると関係が決定的に悪化。
文禄5年に秀吉によって謀反の疑いをかけられ失脚、高野山に追放され、そこで切腹させられた。 

同年、三条河原にて秀次の遺児(4男1女)及び正室・側室併せて39名が処刑されたが、
子女3名は逃れ子孫を残している。また、子息のうち水丸と甘丸は処刑されたとの記述が
ないため、夭折したと見られる。 

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◆豊臣秀勝

永禄12年〜文禄元年(1569〜1592) 
父:三好吉房(一路) 
母:日秀(とも) 
兄:秀次
弟:秀保 

義父:豊臣秀吉 
義弟:羽柴秀康・羽柴秀俊・八条宮智仁親王 
義兄:羽柴石松丸秀勝・羽柴於次秀勝・宇喜多秀家

正室:浅井江
子女:完子

於次秀勝が亡くなったのを受け、叔父・秀吉の養子となりその跡を負う。
丹波亀山城主となり、丹波少将と称された。


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◆豊臣秀保

天正7年〜文禄4年(1579〜1595) 
実父:三好吉房 
実母:日秀(とも) 
実兄:豊臣秀次・秀勝 
養父:豊臣秀長 
叔父:豊臣秀吉・秀長 

辰千代→豊臣秀保 
従三位権中納言 

紀伊・大和100万石。 

正室:おきく(秀長娘) 

・略歴 
天正7年、秀吉の姉ともの末子として生まれる。 
叔父秀長の養子となり、秀長が1591年に没すると13歳にして郡山豊臣家を継いだ。
朝鮮出兵(文禄の役)では兵15000を率いて参加するが自身は渡海せず、
名護屋に陣を張り2年間滞在。家老藤堂高虎(紀伊国紛河城主2万石)と
桑山重晴(紀伊国和歌山城代1万石+但馬国竹田城主2万石)が補佐した。文禄4年、
病を得て大和十津川にて療養中謎の死を遂げる。享年17歳。 
秀保には嗣子がなかったため、大和豊臣家は絶家となった。

・秀保戦歴 
秀保は秀次の末弟であり、若くして大和豊臣家を継ぎ、しかもその頃には日本は
秀吉によって統一されていたため、秀保には戦歴といったものが全くない。
唯一、戦番として出陣したのが朝鮮出兵(文禄の役)の名護屋城在陣であった。

[羽柴秀保陣屋] 
名護屋城の南ほぼ1`(串浦湾に面した位置)に位置し、陣城群の西端で、
串浦からの外敵も意識した重要な役割を持つ特殊な陣城だったという。
一郭、二郭に分かれ、合計3万uと最大の陣城で「名護城図屏風」にも
はっきり描かれている。 
現在の佐賀県鎮西町周辺に所在し、国の特別史跡に指定されている。 

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◆羽柴秀勝

永禄11年〜天正14年(1568〜1586)※生年には諸説有り。

実父:織田信長
養父:羽柴秀吉
実兄:織田信忠・信雄・信孝
義弟:豊臣秀次ほか

幼名:於次丸
正室:毛利輝元養女(内藤元種娘)
   ※婚儀は挙げておらず、婚約のみだったとも。

信長の四男とされるが、諸事から鑑みて五男であろうか。
羽柴を名乗っていた秀吉の長男・石松丸が夭折したため、
主君信長より養子として貰い受け、その後は一門として行動。
本能寺の変後、実父信長の法要では喪主を務めた。
その後、明智光秀の旧領・丹波を領し、亀山城主となった。
中納言に任官し、丹波中納言と呼ばれた。
しかし生来病弱の質だったため夭折した。

極官は権中納言。
家臣に織田家から付いて来た藤掛永勝や、加藤光泰らがいる。


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◆豊臣鶴松

秀吉の次男。

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◆豊臣秀頼

秀吉の三男。

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◆豊臣国松

秀頼の庶子。


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◆豊臣秀俊

小早川秀秋の項を参照。

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