豊臣家の外縁


◆小早川秀秋(1582〜1602) 

幼名:辰之助 
通称:金吾中納言 
別名:豊臣秀俊、秀詮 

正室:毛利輝元養女(宍戸元秀娘) 

木下家定の五男。母は杉原家次の娘。 

1585年、秀吉の養子に入る。 
1595年、秀次事件に連座して丹波の領地を没収され、 
前年小早川隆景の養子となり、同年その領地を継承。 
慶長の役、関ヶ原合戦を経て21歳の若さで没。 
子はなく小早川家は無嗣断絶。 

法名:瑞雲院秀巌日詮大居士。 

丹波亀山城主10万石(豊臣秀俊) 
筑前名島城主35万石(小早川秀秋・30万石とも) 
越前北庄城主15万石(減封実行されず) 
備前岡山城主55万石(小早川秀詮・51万石とも) 

関ヶ原の合戦時、西軍でありながら突如東軍に寝返り、何かと悪名高い秀秋。 
優柔不断で胡乱且つ愚鈍など評価も最低の部類に入ることが多い。 
しかしながら、慶長の役の蔚山城の戦いでは、明の大軍に包囲された蔚山倭城の
救援に向かった。初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど活躍した。
尤もこの時は、城を守っていなければならないとして、救援に突貫したのは
大将として軽率な行動と批判され、秀吉の怒りを買っている。 
また、関ヶ原合戦後岡山に入封した秀秋は、城の外堀をわずか20日間で完成させた。
(二十日掘) 
そして総検地の実施、寺社領整備と古刹復興、農地の整備など急速に近代化させる
など素晴らしい功績も残している。 

これらのことから、彼のとった行動は、結果的に悪評高いものとなりはしたが、 
世間一般に言われるほど低い評価を受けるべきものではないと言えよう。 

尚、羽柴秀行という庶子がおり、備中足守藩士になったという伝もある。
また、小早川氏の名跡は小早川(毛利)秀包の子・能久が継いだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆木下秀規(?〜1615)

別名:秀親。左京亮。

木下家定の六男で秀吉の馬廻衆。肥前名護屋にも在陣した。
関ヶ原では西軍に属し、改易。
大坂の陣で豊臣家に属し、討死した。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆木下俊定(?〜1602)

木下家定の四男。信濃守。丹波一万石。
関ヶ原合戦で西軍に属し、改易される。
その後、弟・秀秋に寄食し、備後国で五千石を食んだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆木下昌利(?〜?)

木下将監。
但馬有子山(出石)城主(城代)

羽柴秀長の一族と伝わる。
「秀吉の」一族でなく「秀長の」一族とされているのが興味深い。
推測であるが、昌利は秀長の舅にあたるのではないだろうか。
妻の家系であるならば、「秀吉の」ではなく「秀長の」一族となる。
城を任されているので舅と考えるが、義兄弟である可能性もある。
いずれにしろ推測の域をでないのではあるが・・・。
いつから秀長に従ったのかは不明。
1576年近江長浜城の留守居役を杉原家次、一柳直次と勤める。
播磨三木城攻め、備中高松城攻め及び賤ヶ岳の戦いに従軍している。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆木下利匡(?〜1584)

木下利国。勘解由。
兄は木下祐久。高台院の叔父。
妻は安藤守就娘か。

山崎の合戦及び賎ヶ岳の合戦に従軍。
三好秀次の家老兼後見役を務め、小牧の役にて討死した。

尚、文献によっては「利国」となっているが誤記であろう。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆木下秀定

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆木下秀有(1826〜?)

豊臣右兵衛少尉

従六位下・滝口
天保年間(天保十四年)の地下官人。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆佐野秀富(?〜?)

豊臣中務大録

従六位下・木工寮官人
天保年間(天保十四年)の地下官人。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


前頁へ戻る

inserted by FC2 system