土佐・長宗我部氏




◆長宗我部文兼(?〜?)

別名:備前守
兄弟:宥性。益光。親正。兼相。安秀。
子息:元門。雄親。家紹。豊定。貞左。恒安。円照。堯固。

長宗我部氏の十五代目当主。


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◆長宗我部元門(?〜1471)

別名:元勝。信濃守。

文兼の嫡男。弟に雄親ほか。
一旦家督を継ぐものの、父と対立し追放された。


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◆長宗我部雄親(?〜1478)

兄の追放後家督を継ぎ、十七代目当主となった。
家督争いで混乱した家中をまとめるため、弟たちを他家の養子とし、
寺社勢力との関係強化に力を注いだ。
子に兼序、序堯、親興、道孝、助高。


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◆長宗我部兼序(?〜1508)

別名:元秀。信濃守。宮内少輔。
子息:国親。元春。国康。親吉。


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◆長宗我部国親(1504〜1560)

別名:千雄丸。信濃守。宮内少輔。瑞王覚世。

1508年、長宗我部氏が没落し、一条氏の庇護を受けた。
その後、一条氏の調停により旧領に復帰。
勢力を盛り返して領土を拡大したが、本山氏と抗争中に病死した。


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◆長宗我部元春(?〜?)

別名:黒川通尭。通仁。肥前守。
子息:黒川宗太郎通長。対馬守通俊。(養子)美濃守通博。

国親の次弟。
兄と不和になり土佐を出奔し、伊予に逃げた。
伊予にて黒川通矩の助けを借りて剣山城を築いた。
この時、通矩と兄弟の縁を結び黒川元春と名乗った。
そして通矩の妹を室に迎え二子をもうけたが、長男通長を壬生川攻め、
次男にして嫡男の通俊を戎能攻めにて失ってしまった為、河野氏の一族
である正岡右近大夫通純の次男・通博を養子に迎え、跡を継がしめた。


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◆長宗我部国康(?〜?)

国親の三弟。
兄・国親が死去した後も甥・元親を補佐した。
土佐国・比江山に住した。
子に親興と親武。


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◆長宗我部親吉(?〜1585)

別名:新左衛門。

国親の末弟。
兄や甥を援け活躍、武勇に秀でた勇将だったと言われる。
天正十三年、豊臣氏による四国征伐のとき、阿波脇城を守備したが、
豊臣秀次・黒田孝高率いる大軍に攻められた。親吉は奮戦したが、
追いつめられ、人質を差し出して土佐に帰還することを条件にして
城を明け渡した。
しかし土佐への帰還の途中、貞光川の栂橋で、土豪の南源六・八蔵父子に
待ち伏せされ、殺されてしまった。


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◆長宗我部元親(1539〜1599)

別名:弥三郎。雪蹊恕三。宮内少輔。土佐守。羽柴土佐侍従。

国親の嫡男。


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◆長宗我部親貞(1541〜1576)

別名:吉良親貞。左京進。播磨守。

国親の次男。
1563年、吉良氏を継ぐ。
知勇兼備の人物で、対一条氏攻略に活躍した。
一条氏没落後は中村城代となって幡多郡を支配した。


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◆長宗我部親泰(1543〜1592)

国親の三男。
武田諸氏・香宗我部親泰の欄を参照。


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◆長宗我部親房(?〜1571)

別名:弥九郎。島親益。

国親の四男。
大柄で快活な人物であったという。
結核の病で有馬に湯治に行く途中、風待ちで海部郡那佐湊に停泊。
そこを密偵と勘違いした海部宗寿の軍勢に襲われて討たれた。


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◆長宗我部信親(1565〜1586)

別名:千翁丸。弥三郎。右馬頭。

元親の長男。


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◆長宗我部親孝(1567〜1587)

別名:香川親和。五郎次郎。
養父:香川信景。

元親の次男。


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◆津野親忠(1572〜1600)

別名:孫次郎。
養父:津野勝興。

元親の三男。


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◆長宗我部盛親(1575〜1615)

別名:吉良千熊丸。長宗我部右衛門太郎。宮内少輔。土佐守。大岩祐夢。

元親の四男。
始め吉良氏を名乗っていたが、長兄・信親が戦死したことを受け家督を継いだ。


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◆長宗我部右近大夫(?〜1615)

元親の五男。側室の小少将から生まれる。
長宗我部家改易後、肥後の加藤家を頼って仕官した。
大坂の陣で兄・盛親の罪が決まった時に召し捕られ、伏見で切腹させられた。


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◆長宗我部康豊(?〜?)

別名:吉田信九郎。長宗我部民部。足立七左衛門。

元親の六男。
元親が死んだ時にはまだ母親のお腹の中だった。
十数年後、兄・長宗我部盛親から長宗我部姓を名乗ることを許され、
長宗我部康豊と名乗る。大坂の陣が起こると大坂に入城して長宗我部隊に属し、
八尾の戦いで奮戦したが、大坂城が落ちたため城を脱出した。
その後、駿府の長光寺に落ち着き、母方の名字である足立七左衛門と名乗った。
ある日、駿府城主・酒井忠利が長光寺の周辺で鷹狩をしている時に、
狂人が寺の客間に切り込んできた。この現場に居合わせた康豊は机を
投げつけて取り押さえ手柄を得た。そこで忠利が康豊に由緒を聞いて、
元親の息子ということを知り、家臣に取り立て200石を与えた。
その後、酒井家が武蔵河越に移封になった時に500石となり、
最終的に1500石の領主となった。亡くなった時期は不明。


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◆比江山親興(1557〜1588)

別名:掃部助。長宗我部掃部介。

長宗我部国康の子で、戸波親武の兄。比江山城主。
豊臣氏の四国征伐時には阿波岩倉城を守備した。
若年寄衆筆頭で知行九千五百石。長宗我部姓を名乗る。
四国征伐では阿波岩倉城を守る。家督騒動で讒言により切腹させられた。
長男は改田へ逃れる道中で斬られ、妻女と次男は改田の善勝寺で自害した。
尚、妻女と二子を含む一族郎党六名が捕らえられ処刑されたとも言われる。


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◆戸波親武(?〜?)

別名:江村右兵衛。長宗我部親武。

長宗我部国康の子。比江山親興の弟。土佐戸波城主。
のちに讃岐十河城主となり、四国征伐では讃岐植田城を守った。


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◆戸波親清(?〜?)

別名:十兵衛。又兵衛。近清。

戸波親武の子。土佐戸波城主。
関ヶ原戦後に浪人し、大坂の陣のとき盛親の元へ駆けつける。
戦後は藤堂家に仕えた。荒木又右衛門の師匠とも。


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◆吉良親実(1563〜1588)

別名:新十郎。蓮池左京進。


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◆吉良親英(?〜?)

別名:五郎左衛門。戸波五郎。長宗五郎。


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◆真西堂如淵(?〜1588)

別名:吉良如淵

吉良親貞の子で親実の兄とされる。
南村梅軒に土佐南学を学び、上京して修行を積んだ。
帰国後、城下にて儒学を講じた家督問題で切腹。京に逃れたともいう。


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◆長宗我部盛恒(?〜1615)

別名:右衛門太郎。

盛親の嫡男。
大阪の陣では大坂城が落城したため逃亡した。
そして京の良峯(善峯)寺に隠れたが、捕らえられて伏見の豊後橋で斬られた。


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◆長宗我部盛高(?〜1615)

別名:右衛門次郎。

盛親の次男。
大阪の陣では父と共に大坂城に入ったが、落城時に逃亡して土佐に落ち延びた。
しかし山内家に捕らえられ殺された。


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◆長宗我部盛信(?〜1615)

別名:右衛門三郎。

盛親の三男。
大阪の陣では父と共に大坂城に入ったが、落城時に逃亡し土佐に落ち延びた。
そして兵を募って決起しようとしたが、山内家に攻められ土佐・伊予・阿波の
国境に逃亡する。やがて父と兄が殺されたことを知り、高岡城の山内主繕を
攻めるが再び破れ逃亡する。その後、捕らえられて殺された。 


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◆長宗我部盛定(?〜1615)

別名:右衛門四郎

盛親の四男。
大阪の陣で盛親敗北後、弟とともに山城八幡で捕まって斬られた。


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◆長宗我部右衛門五郎(?〜1615)

盛親の五男。
大阪の陣後は兄・盛定とともに行動し、山城八幡で捕まって斬られた。


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◆長宗我部盛澄(?〜?)

別名:丸橋忠弥。

盛親の落胤と伝わる。由井正雪の乱に加担。


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◆長宗我部盛胤(?〜1615)

盛親の孫。盛恒の子か。
叔父・長宗我部右近大夫の元で養育されていたが、
大阪の陣後、叔父とともに伏見で処断され、長宗我部嫡流は断絶した。


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◆長曽我部太七郎(1845〜1863)

阿波の国の町人出身で、筑前黒田家御用達の大坂の商家の手代であったが、
幕末三大蜂起の一つと言われる「生野の変」(生野義挙)に参加したが
蜂起は失敗し、文久三年十月十四日、播州路の追上で銃弾を浴び死亡。
享年十八。
土佐・長宗我部氏の裔であろうか。


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(?〜?)


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(?〜?)


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