織田家・信長公御子息之儀


織田信長には12人の実子がいた。
信正・信忠・信雄・信孝・秀勝・勝長・信秀・信高・信吉・信貞・信好・長次
(庶長子・信正は俗説)


2014.07.21 改訂
◆織田信正(1557〜1582年) 古渡城主 

名:勝、於勝丸 
官:帯刀、大隈守、主膳正、従四位下侍従 
法:見性寺正誉英巌

父:織田信長
母:原田直政の妹・直子

別名:村井重勝
義父:村井貞勝、織田信広
正室:織田信広の娘 

信長の庶長子とされるが、その立場は極めて弱く、一門扱いされていなかったらしい。
母は原田備中守(塙直政)の妹で、初め村井貞勝の養子とされ、帯刀重勝と名乗っていた。
その後、信長の兄・信広の娘を妻に迎え、大隅守信広家を継承した。
尾張国古渡城主となっており、冷遇されつつも、一定の所領は形成していたようだ。 
また、同じ庶子という立場からか、神戸信孝と仲が良かった。そのため、本能寺の変後、
秀吉の為に信孝が自害すると連座に処せられ、所領を奪われた。
その後出家し、京都見性寺にて94歳まで生きたという。 

子息に長男・信衡、次男・的寿の二人がいる。 

・織田信衡(1574〜1663年) 
幼名:勝若丸 
通称:三郎四郎、帯刀大夫
豊臣秀次に仕えたが、秀次失脚に連座し所領没収の憂き目にあった。
子息に織田信真(信直)、孫に信輝。

・織田的寿(1591〜1676年)
幼名:亀千代 
父・信正の後を受け見性寺に入寺し僧侶となったか。 

※但し、信広の娘は丹羽長秀の妻のみであることや、古渡城は当時廃城となっていた、
 官途の記録にも載っていないなど、実在の可能性はかなり低いとみられる。


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◆織田信忠(1557〜1582) 岐阜城主

名:奇妙、勘九郎、信重
官:出羽介、秋田城介、左近衛少将、左近衛中将
法:大雲院三品羽林仙巖

父:織田信長
母:生駒家宗の娘?

弟:信雄、信孝、信房、秀勝、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次

正室:−(武田晴信娘・松と婚約
側室:塩川伯耆守の娘

子:秀信、秀則


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◆織田信雄(1558〜1630) 長島城主、清洲城主

名:茶筅、三介、具豊、信意、信勝、信雄
官:侍従、左中将、大納言、内大臣
法:常真入道、徳源院実厳 

実父:織田信長 
実母:生駒家宗の娘 
養父:北畠具房 
義父:北畠具教

兄:織田信忠 
弟:信孝、信房、秀勝、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次 

正室:北畠具教娘(雪姫・千代御前)
継室:木造具政娘 
側室:津田長利娘、久保三右衛門娘、他

子:秀雄、重雄、高雄、信良、高長、長雄 
娘:小姫、八重姫、佐々一義室、生駒直義室、佐々木政勝室など 

永禄元年(1558)生誕。織田茶筅。 
元亀元年(1570)北畠具房の養嗣子となり具教の娘雪姫(具房妹)を娶る。
大河内城主。北畠茶筅丸。 
元亀3年(1572)元服。北畠三介具豊と成り後に信意に改める。 
天正2年(1574)7月第三次伊勢長島一向一揆攻めに水軍を率い参陣。
侍従任官。 
天正3年(1575)6月家督相続。北畠当主・伊勢国司となり御本所と称される。
田丸城主。左近衛中将任官。 
同年8月越前一向一揆平定戦。 
天正4年(1576)11月具教他北畠一族の大部分を粛清。
同年12月北畠氏残党討伐。 
天正5年(1577)2月紀伊雑賀衆平定戦。 
天正6年(1578)10月荒木村重謀反鎮圧戦。 
天正7年(1579)独断で伊賀に侵攻するも大敗。叱責される。
天正8年(1580)伊勢田丸城焼失の為、松ヶ島城を築城。松ヶ島城主。
天正9年(1581)伊賀平定。3郡を領す。 
天正10年(1582)2月甲斐武田制圧戦。 
同年6月2日本能寺の変直後蒲生賢秀の援軍要請に応え近江土山まで軍勢を
進めたが光秀敗死の報を受け帰国。この頃織田へ復姓、信雄と名乗る。 
同年6月27日清洲会議にて尾張を相続・清洲城主となる。 
併せて三法師の後見人として南伊勢伊賀尾張約100万石を領す。
天正11年(1583)3月からの賤ヶ岳合戦でも秀吉と結ぶ。 
同年4月24日信孝を岐阜城に包囲。降ろし自刃せしめるがその後家康に接近。
天正12年(1584)3月小牧長久手合戦では家康と連合するも戦線は膠着。 
同年11月羽柴軍別働隊が伊賀・伊勢に侵攻するに及び秀吉と講和。
伊勢半国と伊賀を割譲。以後秀吉に属す。
天正13年(1585)居城・伊勢長島城が地震で大破した為、尾張清洲城に移る。
越中佐々攻めに従軍。降伏を仲介。
天正15年(1587)九州征伐の後内大臣に昇進。
天正18年(1590)1月、秀吉の養女となっていた長女小姫と秀忠が結婚。 
同年小田原征伐韮山城攻め。後移封を拒み除封。この時出家し常真と称す。 
下野烏山2万石を捨扶持として与えられ、常陸佐竹氏預りに。 
天正19年(1591)秋田、次いで伊勢熊野・伊予と移されるも家康の斡旋で赦免される。
天正20年・文禄元年(1592)文禄の役に際し肥前名護屋で秀吉に再出仕。 
相伴衆(御伽衆)に加えられ茶の湯に傾倒。叔父有楽に学ぶ。 
慶長年間に嫡子秀雄が越前大野5万石と羽柴姓を拝領し、自身も大和国内で
1万8千石を与えられ大坂天満に寓居。肥前名護屋にも在陣した。 
慶長5年(1600)関ヶ原合戦では畿内情報を家康に送るも、嫡子・秀雄が西軍に
属し自身も西軍から銀を受取るなどしたため親子共改易。 
秀雄は徳川秀忠から米3千表を支給され江戸に居、信雄は大坂へ身を寄せた。
方広寺鐘銘事件の折、従姉妹である淀殿から片桐且元殺害の上挙兵する相談を受けたが
慎重論を唱え、その旨且元に知らせ彼を退去せしめ、自身も脱出した。
元和元年(1615)上野甘楽・多胡・碓氷郡内2万石と大和宇陀郡松山3万石
合計5万石を領し、織田宗家として大和国持大名の格式を得る。 
上野甘楽に居を構え庭園楽山園を作る一方養蚕等産業の育成にも力を注いだ。
後四男信良に上野小幡藩2万石を与え、晩年は京都北野に寓居し茶と鷹狩に明け暮れた。
実質隠居であった。 
寛永5年(1628)10月家光の招きにより江戸城での茶会に参加。 
寛永7年(1630)4月30日没。享年73歳。 
実質的隠居料であった大和宇陀3万1200石は五男高長が継いだが、
この相続には上野小幡織田家から異論が出され、幕府の裁決により認められた。 

※本能寺の変後の安土城焼失は、信雄の暗愚な印象行為ではなく、
実際は略奪に入った土民が行ったものという研究が昨今確実視されている模様。


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◆織田信孝(1558〜1583) 神戸城主、岐阜城主

名:三七、三七郎、神戸信孝
官:侍従
法:昭雲院高厳

実父:織田信長(三男)
実母:華屋院(坂氏の娘)

異父兄:小島民部少輔正次

養父:神戸具盛

正室:神戸具盛の娘(鈴与)
側室:小妻氏の娘、神戸の板御前等

子:娘

他伝では神戸肥後信茂、信豊、賢姫(織田信衡室)がいるという。

永禄元年、織田信雄より早期に生まれるも、母の身分が低かった為
遠慮して弟になったという説が昔からある。
しかしながら、坂氏は伊勢の豪族であり決して身分が低いことはない。
後年信孝が兄・信雄と家督を争った際、風聞を有利にする為に
作為されたものだとする説が有力か。

信長の伊勢攻略の一環として、豪族神戸氏に送り込まれた。
その際幸田彦右衛門が傳役として、その他岡本良勝・坂仙斎・
三宅権右衝門・坂田縫殿助・山下三右衛門らが付けられた。

養嗣子となった三七だが、当主具盛はこれを無視し、冷遇した。
この状況に怒った実父信長により具盛は隠居させられ家督を継いだ。
また、家督を継いだ折、神戸家の侍の粛清が行われ、高岡城主山路弾正忠は切腹。
その他120人の臣が追放された。引続き神戸家に仕えた者は480人。
これらを神戸480人衆と称したという。
そして高岡城には信孝の異父兄小島兵部少輔が入れ置かれた。

元服時加冠の役は柴田勝家が務めたという。
神戸家当主として、神戸家の家臣だけでなく関一族をも摩下に置いた信孝だが、
関家の当主関盛信は信孝に好意を持たず、これを軽んずる傾向があった。
天正元年春、ついに盛信は信長の勘気を蒙り、蒲生賢秀に身柄を預けられた。
そして、盛信の居城だった亀山も信孝の領分とされた。
信孝の支配圏は河曲・鈴鹿の二郡、約五万石といわれる。

織田連枝衆序列第三位として遊撃軍を主に率いた。
長島一向一揆討伐、越前一向一揆討伐、紀州雑賀攻め、播磨神吉城攻めに従軍。
摂津有岡城攻めの時は、当初安土留守居役として残されたが、まもなく長兄・
信忠に従い高槻城包囲に加わる。
甲斐武田討伐に従軍していないのは、四国攻めの準備の為であろうか。
四国に渡る前、信長より朱印状によって讃岐一国を与えられた。
そして四国の国人統制の心得について諭されている。
この時点で四国方面軍総帥に抜擢され、連枝という特別の立場を離れ、
一部将としての扱いになったとされる。
四国攻めは信孝を総大将に、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄ら総勢一万四千人。
兵は各地からの寄せ集めとは言え、織田政権が順調に作用していれば
信孝らは十分な成果を挙げ、一門の重鎮となりえたのは想像に難くない。
しかし、丁度その時、本能寺の変が起こり、結果として軍勢は霧散。
信孝らは疑心暗鬼に陥り、恐らく無実であった従兄弟の津田信澄を討ち果たした。
その後羽柴秀吉と共に明智光秀を討ったまでは良かったが、
経験値の差などから秀吉に遅れをとり、また兄・信雄との対立から
織田家そのものの実力を減退させる行為に走り、結果自滅してしまった。
秀吉が幸運の元に送った生涯とは正反対に、不運の元に生涯を送ってしまった。
なまじ才能があっただけに残念な結果になったのではないだろうか。

・小島兵部少輔正次
生年没不詳。
元亀二年(1571)一月、信孝が神戸氏の家督を継いだ時、信孝に仕える。
本能寺の変後、信孝の美濃移封に伴い、神戸城を預けられて勢北の押さえとされた。
翌天正十一年(1583)五月、信孝は秀吉に敗れて切腹する。
神戸城は信雄方の林与五郎に攻められ、説得されて開城した。


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◆羽柴秀勝(1568〜1586) 亀山城主

名:於次丸
官:左近衛権少将、権中納言
法:瑞林院殿賢岩

信長の四男とされるが、諸事から鑑みて五男であろうか。
羽柴秀吉の養子となり、一門として行動。
室は毛利輝元の養女。(内藤元種娘)
婚姻はしておらず婚約のみだったともいう。

丹波亀山城主を務めたことから丹波中納言と呼ばれた。


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◆織田信房(?〜1582) 犬山城主 

名:坊丸、源三郎、津田勝長
法:林庭宗松。

父:織田信長
母:不明

義父:遠山景任、武田晴信、池田恒興
義母:おつやの方

妻:池田恒興の娘?

子:津田勝三郎勝良

一般に信長の五男とされるが、四男の秀勝と逆順である可能性もある。

8歳にて美濃岩村城主遠山景任没後、その妻(信長の叔母・おつやの方)から請われ養子。

元亀三年(1572)、武田信玄の武将秋山信友によって攻められて岩村城は陥落し、
武田方の居城となる。おつやの方が秋山信友を夫として迎え入れることで和議を結び、
信友が岩村城主となり、坊丸は甲斐に送られ、信玄の養子(人質)となった。 
甲斐で元服し、源三郎勝長と名乗る。(していないとも) 

天正九年(1581)11月、武田勝頼によって坊丸は送還され、安土城で信長と対面。
織田家復帰後犬山城主となり、源三郎信房を名乗る。 
一般には勝長で流布しているが、当時の書状における署名は「信房」で統一されている。
(このあたり、信長の弟・信行の状況と似ている。) 
また、津田姓を名乗った形跡もある。 

織田家においては、兄・信忠の与力(連枝衆)として活動。 
武田攻めに参陣。信濃・上野を攻略し、上野の小幡氏を降伏させるなど活躍を見せる。
信忠の弟という立場で有力一門になりかけていたが、本能寺の変にあい、
信忠と共に二条御所にて奮戦し討ち死にした。 

子の津田勝良は本能寺の変後、尾張で織田信雄に仕えた後、
前田利長に仕え、600石を知行した。 
大坂の陣では前田利常の馬廻として参陣し、首級を一つ挙げたという。
元和二年没。 子孫は金沢藩士。
息女は源三郎長政、長次郎、坂野七左衛門妻。


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◆織田信秀(元亀〜文禄年間) 

名:大洞、三吉郎
別名:羽柴三吉侍従、豊臣信秀、浦坊

正室:稲葉貞通娘(玉雲院)
子女:織田重治、虎法師、西尾氏教室

織田信長の六男。美濃揖斐地方に所領を持ち、天正十一年頃元服。

信長の死後、羽柴秀吉が権力を掌握すると稲葉一鉄の口添えによって秀吉に仕え、
甥の織田秀信や外戚である六角義郷、稲葉貞通(曽根侍従)らと取り立てられた。
天正十三年(1585)七月、義郷らとともに従四位下侍従に任じられる。
このころ、正室玉雲院稲葉氏が輿入れしている。
玉雲院の母は信長の妹であり、玉雲院は信秀とは従兄弟の関係になる。
天正十四年二月月、侍従任官の礼物として白銀十枚を朝廷に献上した。
同年四月の後陽成天皇の聚楽第行幸に際しては秀吉の牛車の後ろに従い、
他の大名衆とともに忠誠を約する起請文を提出した。
同年、信長の姉妹の子で従兄弟にあたるクマノスケ(織田熊之丞か)なる者と共に
大坂で受洗、キリスト教に入信した。洗礼名はペトロ。
天正十五年(1587)、九州征伐に兵を率いて従軍。
文禄の役にも「うしろそなえ衆」として三百人を率い、肥前名護屋城に駐屯。
所領石高は不明ながら、この軍役動員を根拠とし、二万から五万石級の所領を得ていた
可能性が指摘されている。娘婿の西尾氏教が揖斐三万石を領有していることから、
信秀の所領を継いだとも考えられる。

信秀の生母は稲葉氏との推測が有力であり、さらに秀吉の側室となった説もある。
この説が正しいとすると、信秀は秀吉の一族として羽柴姓を許された他、
侍従に任官し、二〜五万石級の大名に昇進している。

尚、大洞・小洞ともに美濃の地名の為、弟・信高と同腹ではないかとも言われているが、
成長後の行動や待遇に差異が多く、おそらく違うであろう。

ニ男一女あり。
長男・忠三郎重治は何故か父の遺領は相続しなかったようだ。
正室は、従兄弟・織田信次(信貞長男)の娘。
次男・虎法師は出家し僧侶となったが、修行中賊に襲われ死亡。
長男、次男ともに子はなく、信秀の男系は断絶した。
長女は西尾氏に嫁ぎ、その血脈を伝えた。


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◆織田信高(1576〜1602)

名:小洞、藤十郎、羽柴左衛門佐
官:左衛門佐

妻:佐々成政の娘・光秀院

子:高重

母:興雲院(お鍋の方)

信吉の同母兄とされるが、実際は信高の方が弟であるらしい。
そのため、実際は異母兄弟なのかもしれない。

本能寺の変当時、幼少で弟・信吉とともに氏家行広などに匿われ育った。
のち豊臣秀吉に仕え、近江愛知郡菩提寺村、神崎郡山上村に計二千六十石を領す。
関ヶ原の戦いにおいて西軍に加わり改易。
まもなく死去した。
子孫は二千石の高家旗本となり幕末まで続いた。


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◆織田信吉(1573〜1615)

名:酌、長丸
官:武蔵守
法:省華院雲厳道ト

子:信之、竹森清左衛門の妻

母:興雲院(お鍋の方)

本能寺の変当時、幼少で兄・信高とともに氏家行広などに匿われ育った。
のち豊臣秀吉に仕え、信吉は神崎郡高野村、犬上郡宇尾村などに計二千石を与えられたが、
関ヶ原の戦いにおいて兄弟は西軍に加わり領地を没収された。 
その後まもなく信高は死去し、 信吉は高野村に蟄居となり後に大坂城下へ移る。
1615年4月18日京都にて43歳で死去。
子孫は京極家や水戸家へ仕えた。 


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◆織田信貞(1574〜1624) 

名:人、藤四郎
官:雅楽助、左京亮

父:織田信長(九男)
母:土方雄久の娘

本能寺の変の折は幼少であり、埴原長久に養育された。
のちに豊臣秀吉の馬廻衆となり、近江国内に千石の所領を与えられた。
関ヶ原の合戦においては西軍に加担、伏見城攻めに参加し改易。
その後浪人したが、大坂の陣に参陣し所領を与えられた。

長男・信次の子孫は尾張藩士となり、次男・貞置は旗本となった。


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◆織田信好(?〜1609) 

名:長好
官:左京亮
法:徳林院殿前左京兆清岩

父:織田信長(十男)
母:土方雄久の娘

信長十男。生母は土方氏。
本能寺の変時にはまだ幼少だった為秀吉に引き取られ、後家臣となる。
彼自身の動向実績はほとんど不明。
信長一族の墓がある京都総見院に信好の墓もあるが、
その施主は親戚とある為妻子はいなかったようだ。


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◆織田長次(?〜1600) 

幼名:縁(ゑん) 
通称:長兵衛 

父:織田信長(十一男)公式では末子
母は不明だが、信高・信吉と同母弟とする説もある。

豊臣秀吉・秀次に仕え、関ヶ原の合戦では兄・信吉とともに 
西軍として参戦・大谷吉継隊に所属し、平塚為広らと戦死した。 
おそらく二十歳前後のことと考えられる。 


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