武田諸氏

本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門・源義光を始祖とする。


◆蠣崎武田氏  ◆上総武田氏  ◆甲斐武田氏
◆若狭武田氏  ◆安芸武田氏  ◆香宗我部氏


蠣崎武田氏

◆武田信広(1432〜1494)

若狭守護・武田信賢の子。幼名は彦太郎。
若狭守護職は信賢の弟・国信の家系に受け継がれ、
実父とも対立し、二十一歳の時郎党を連れて出奔した。
関東公方・足利成氏、ついで三戸の南部光政を頼った。
そして陸奥宇曽利へ移住し、南部家から田名部・蠣崎の知行を許され、
蠣崎武田氏を名乗る。その後生駒政季を奉じて蝦夷地へ渡り、
上ノ国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せ、気に入られて養嗣子となった。
このとき、蠣崎信廣と改めている。

1457年アイヌ民族とのコシャマインの戦いが起こり、、
開戦当初は奇襲を食らった日本武士団が追い詰められていたが、
信広が日本武士をまとめあがて反撃に打って出、敵将を討ち取った。
この鎮圧における功績により、信広の蝦夷地における地位は決定付いた。

嫡男に光広がおり、子孫は蠣崎、後に松前氏と改姓し江戸幕末まで続いた。


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上総武田氏

◆武田信長

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◆武田信高

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◆武田信政

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◆武田豊信


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甲斐武田氏

◆武田信縄(1471?〜1507)

五郎。左京大夫。陸奥守。
子に信虎、信友。弟に油川信恵、岩手縄美、松尾信賢、帰雲軒宗存。


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◆油川信恵(?〜1508)

信縄の弟。勝山城主。彦八郎。
子に播磨守信貞、刑部信守(信盛)、加賀守信友、左馬介顕重。

武田信昌の次男で信縄の弟。父より家督に望まれ、兄と抗争。
父と兄が相次いで死去すると、甥の信虎より家督を奪うべく争う。
その後信虎に居城の勝山城を攻められ、嫡子信貞と共に討たれた。


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◆岩手縄美(?〜1508)

信縄・信恵の弟。四郎。治部少輔。信安。縄実。縄真。
子に能登守信勝(信盛)、助九郎信行(信友)。子孫は旗本。

兄・信恵の家督就任を支持し、信縄・信虎親子と争ったが、
永正五年坊ヶ峰合戦で討死した。


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◆松尾信賢(1478〜1538)

次郎。武田信昌の四男。

山梨郡松尾郷を領し、松尾を称した。
甥の信虎を後見し、重臣となった。
後に娘(松尾殿)が信虎の側室となり、晴信の弟・信是を産み、
その縁で男子のなかった信賢の嗣子とされた。


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◆武田信虎(1494〜1574)

五郎。信直。左京大夫。陸奥守。相伴衆・甲斐守護職。
子に晴信、信繁、信基、信廉、信是、信実、信龍、信友、勝虎。


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◆勝沼信友(1495〜1535)

次郎五郎。安芸守。左衛門大輔。
子に丹波守信元、加藤信厚(信原)。

信縄の次男で信虎の弟。
相模の北条氏綱との戦いで戦死、後を子の信元が継いだ。


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◆桜井信貞(?〜?)

河内守。信定。
子に安芸守信冨(信忠)。

信縄の四男。
晴信・勝頼親子に仕え、内政面で活躍した。
子の信冨も同様に内政を担当し、後に徳川家に出仕。


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◆武田晴信(1521〜1573)

勝千代。太郎。徳栄軒信玄。大膳大夫。信濃守。
子に義信、海野信親、西保信之、武田勝頼、仁科盛信、葛山信貞、武田信清。


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◆武田信繁(1525〜1561)

次郎。吉田信繁。左馬助。典厩。
子に望月信頼、武田信豊、望月信雅(信永)


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◆武田信廉(1532〜1582)

孫六。刑部少輔。逍遙軒信綱。
子に平太郎信澄、麟岳。


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◆武田信基(?〜?)

信虎の三男。上野介。早世した。


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◆松尾信是(?〜1571)

源十郎。民部少輔。次郎。

信虎の五男。母方の祖父・信賢の嗣子となるが早世した。
跡は弟・信実が継いだ。


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◆武田宗智(?〜?)

信虎の六男。快川紹喜和尚で有名な恵林寺に入り僧となった。 


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◆河窪信実(1544〜1575)

兵庫介。武田信実。
子に河窪信俊。子孫は旗本。

信虎の七男。
長篠の合戦の折、鷲津砦を守備していたが、酒井忠次や金森長近らの
別働隊と交戦し討死した。


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◆一条信龍(1539〜1582?)

上野介。右衛門大夫。信隆。信竜。甲斐上野城主。駿河田中城代。
子に上野介信就、久次郎信貞。

信虎の八男。一条時信の名跡を継承し、一条氏を称した。
晴信の弟でその後備えとして転戦。兄の死後は勝頼を支えた。
長篠の合戦では馬場信春とともに殿軍として奮戦した。
織田氏の甲斐侵攻の折に戦死とされるが、通称が同じ信就と混同され、
それより以前に死去していた可能性が高い。


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◆武田勝虎(?〜?)

信虎の末男。左衛門佐上野介?信友?
信虎駿河追放後、当地で生まれたと思われる。


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◆武田義信(1538〜1567)

晴信の嫡男。太郎。


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◆海野信親(1541〜1582)

二郎。晴信の次男で盲目。正道丸。信濃海野城主。
武田義信の同母弟で、勝頼の異母兄。
信濃海野氏の名跡を継いだ後、出家して竜芳と号した。
半俗半僧の身であったため、世に「御聖道様」と呼ばれる。
1582年に織田信長が甲斐に侵攻してきた際は、入明寺に匿われたが、
天目山の戦いで弟・勝頼が敗死した知らせを聞くと入明寺で自殺した。享年42。
子に信道(顕了道快)。子孫は幕府高家となり幕末まで続く。


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◆西保信之(1543〜1553?)

三郎。晴信の三男で夭折。
上総武田家に養子に出され、豊信と名乗ったとする説もある。
また、これとは別に、武田氏滅亡時、仁科盛信の三男は、
豊信が盛信の実兄にあたる事を頼りに落ち延びたという伝承が遺されている。


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◆武田勝頼(1546〜1582)

四郎。諏訪四郎。伊奈四郎。晴信の四男。
子に信勝、勝親。


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◆仁科盛信(1557〜1582)

五郎。晴清。信濃高遠城主。
子に信基、油川信貞、武田晴正、信久。


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◆葛山信貞(?〜1582)

十郎。晴信の六男。
武田氏滅亡時に甲府善光寺で誅された。


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◆武田信清(?〜?)

大勝。晴信の七男。安田三郎信清。玄竜。勝信。
僧籍にあったが、兄・勝頼の命で還俗し海野領を守った。
武田滅亡時に上杉景勝の嫁となっていた姉を頼り落ち延びる。
景勝から三千石を与えられ、勝信と称した。
米沢転封後は一千石に減じ、家系は明治維新まで米沢藩に残った。 


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◆望月信頼(1547〜1564)

三郎。遠江守。昌頼。

信繁の長男。望月氏を継ぐが早世。跡は三弟の信永が継いだ。


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◆武田信豊(1549〜1582)

長老。六郎次郎。左馬助。相模守。信濃小諸城主。
子に次郎法輝、雅楽。

信繁の次男だが嫡子とされた。


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◆望月信永(1551〜1575)

遠江守。信長。信雅。

武田信繁の三男。望月城主。
永禄七年に十四歳で望月氏に入婿し、跡を継ぐ。
六十騎を預かるが、長篠合戦で討死した。


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◆河窪信俊(1564〜1639)

新十郎。信実の嫡男。与左衛門尉。子孫は旗本。


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◆一条信就(?〜1582)

一条信龍の嫡子。上野介。右衛門大夫。
父信龍は武田滅亡時に討死したとされるが、「甲斐国志」によると信龍は
すでに病没しており、織田軍と戦い討死したのは子の信就としている。


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◆武田信道(1574〜1643)

海野信親の長男。信音。
子孫は武田嫡流・幕府高家として存続。


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◆武田信勝(1567〜1582)

武王丸。太郎。勝頼の嫡男。
天目山の戦いで父らと共に自害。享年16。


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◆武田勝親(1572〜1584)

勝千代。勝三。勝頼の次男。
父の勝頼や異母兄の信勝は天目山で自害して果てたが、
勝親は武田家臣・小宮山数馬友晴の手によって奇跡的に逃げ延び、
名族であることを惜しんだ摂津国の池田恒興にかくまわれた。 
だが、元来身体が弱かったため、それから数年後には病死している。


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◆武田信友(?〜?)

六郎。信虎の九男。上野介。信虎が駿河追放後にもうけた子。勝虎?
今川義元に属したが、信虎とともに今川家乗っ取りを計画。
これに失敗すると兄晴信の下へ向かったという。
元亀三年、駿河賤機山城守将。
だが、葛山氏の反逆に連座し甲斐を去ることとなり、小田原北条氏に仕えた。


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◆武田信光(1554〜1582)

勝千代。信友の子。左衛門佐。信堯。
百騎を預かる。永禄十二年、駿河江尻城主。
長篠合戦を生き延びるが、武田滅亡時に妻の父、小山田信茂とともに
勝頼を捨て信長に降る。しかし、その行為を不快に思う信長により殺された。 


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◆武田信治(1572〜1587)

穴山信君の長男。勝千代。穴山信治。祖母は晴信の姉で、母は晴信の娘。
武田滅亡後に信君は勝千代を当主として武田家を再興しようとした。
父の遺領を相続したが、若くして没したため武田家再興は果たせなかった。 


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◆諸角虎定(?〜1561)

信玄の曾祖父武田信昌の庶子で六男。豊後守。昌清。
武田信虎に侍大将として仕え、飯富虎昌などと並び賞賛された。
武田二十四将の一人。その知謀を山本勘助に高く評価される。
川中島合戦で本陣右翼を守り、本陣崩壊を防ぐために奮戦。
討死するも家臣の石黒五郎兵衛、成瀬正一が首を取り戻した。
先を読む力に長けていたという。
法名は智賢義勇居士、慈照寺殿昌良清禅定門。
家督は子の昌守が継いだが、1570年原盛胤(虎胤の子)と争いを起こし改易。


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阿波武田氏

◆武田信顕(?〜1582)

上野介。信玄異母弟。駿河に生まれ、今川義元の家に養わる。

三好長慶は弘治二年(1556)、室町幕府支配体制の確立と共に、
阿波脇城の城主として甲斐の国から武田上野介信顕を迎えたと伝わる。
三好長慶の先祖である三好氏はこの小笠原氏の一族であることに関連するか。

天正七年に長宗我部氏に降伏し、同年十二月には、脇城征伐に来た三好軍を
迎え撃ち、全滅させた。しかし、三好笑岩の説得工作により天正九年に再び
三好に帰順する。同年(1581)、土佐の長宗我部元親が阿波の国に侵攻し、
脇城は長宗我部親吉に攻められ天正十年8月22日落城し、城主武田信顕は
讃岐に逃れたが、落延びる途中、大川郡白鳥付近で補足され討死した。


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◆武田信定(1566〜1582)

千勝丸。信顕の長男。享年16。脇城落城の際、捕らわれて自殺した。

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◆武田信綱(?〜?)

甲斐守。東条信綱。阿波の国人。
甲斐武田氏の出自といい、天文期に阿波に移ったというが、
天文期に阿波に移ったのは武田信顕のことでその混同と思われる。
甲斐源氏武田信義の孫・一条信長の末裔か。
阿波那賀郡桑野城主となって周辺を領した。
子に実光、只右衛門、光房、光成。
弟に光豊、光秀。


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◆武田実光(?〜1585)

東条関兵衛。信光。木津城主。
信綱の子。勇猛なことで知られていたが、元親の阿波侵攻により、
弟・東条唯(只)右衛門を人質に出し降伏した。
四国征伐では木津城を守備するが、秀長軍にいた叔父の東条紀伊守の説得に
より戦わずに土佐に退却する。帰国後元親の命により切腹。
妻は久武内蔵助の女で元親の養女。一門衆として遇された。
子(弟)に桑葉丸。弟に東条唯右衛門、東条光房、東条光成。


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◆東条光豊

紀伊守。信綱の弟で実光の叔父。西方城主。
四国征伐では秀長軍に属し、甥の東条関兵衛を説得した。
豊臣氏家臣。関ヶ原では西軍に属したか。


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若狭武田氏

◆武田信栄
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◆武田信賢

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◆武田国信

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◆武田信親(?〜1484)

若狭守護三代国信の嫡男、幼名は彦太カ。
少年の頃から将軍の供衆として名前が見え、将軍義尚の犬追物興行にも
何回か参加している。文明十二年には相伴衆になった。
二四才の若さで没し、事績が充分ではない。
それでも、禅に深く帰依し一休宗純の弟子となっていたことがわかっている。


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◆武田信豊(1514〜?)

武田元光の次男。信親の弟。若狭武田第七代当主。彦二郎。

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◆武田信高(?〜1556)

若狭守護武田信豊の弟。
粟屋氏の反乱の後、粟屋一族の拠点となっていた宮川に入部し、
新保山城主となり「宮川殿」と呼ばれる。
後に信豊、義統親子が争った際には、信豊に属するがその最中に没した。


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◆武田義統(1526〜1567)

武田信豊の嫡男。信統。義元。


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◆武田信方(?〜1582?)

武田義統の弟。彦五郎。
粟屋氏との戦いで活躍。武田信高が没すると、その跡を継ぐ。
1567年、叛乱を企てるが家臣の反対に遭い実現しなかった。
その後、朝倉氏と結び信長に抵抗するが、朝倉滅亡後は行方不明となる。
甲斐武田が滅んだ際、匿われていた信方は生け捕られて殺害されたというが、
没年は天正13年(1585年)、天正14年(1586年)とも言われている。


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◆武田元明(1552〜1582)

義統の嫡男。若狭武田氏最後の当主。


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安芸武田氏

◆武田元繁
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◆武田光和

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◆武田信実

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◆武田信重
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◆安国寺恵瓊
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香宗我部氏

◆中原秋道

父は一条忠頼。甲斐武田の一族で源平時代に生きた。
源頼朝に従ったが、その威勢を恐れた頼朝により親兄弟ともども
誅せられる。その遺児が秋通であり、家臣中原秋家に養育された。

建久四年(1193)、土佐に移り、貞応二年(1223)香美郡宗我部・
深淵両郷の地頭職を譲られ、土着した。
子に宗通。

ちなみに、秋通が土佐に下向したころ、秦能俊が長岡郡宗我部郷に入部した。
香美郡宗我部郷、長岡郡宗我部郷にはいった両氏はそれぞれ宗我部を
名字としたが、のちに、区別するため郡名を冠して香宗我部、長宗我部を
名乗るようになったのだという。 


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◆香宗我部親秀(?〜?)

香宗我部通長の子。遷仙。

子に秀義、養子に弟の秀通

安芸氏に敗れ、子の秀義が討死すると弟の秀通を跡継ぎとする。
後に長宗我部国親に押され、国親の次男親泰を養子にすることとなる。
弟・秀通に家督を譲るよう命じるが、拒否されたため、秀通を殺害した。
隠居後、秀通の子、泰吉・秀政兄弟を養育した。


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香宗我部秀義(?〜1526年)

香宗我部親秀の子。
大永六年、安芸備前守との合戦に敗れ、香宗城にて自刃。


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◆香宗我部秀通(?〜1556)

子に中山田泰吉、香宗我部秀政

香宗我部親秀の弟で、甥・秀義が討死すると、兄・親秀の養子となった。
二男一女をもうけたが、兄・親秀に、家督を当時勢力を伸ばしつつあった、
長宗我部国親の三男親泰に家督を譲るよう命じられる。
正論を持って拒否したが、兄・親秀より狩りに誘われ殺害された。


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◆香宗我部親泰(1543〜1593)

長宗我部国親の三男。弥七郎。内記。安芸守。左近大夫。

兄に長宗我部元親、吉良親貞、弟に島親益
子に香宗我部親氏、親和

香宗我部秀通の養子となり、秀通の娘を妻とする。


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◆香宗我部親氏(1572〜1592)

香宗我部親泰の嫡子。千菊丸。弥七郎。

既に老齢であった元親・親泰兄弟や、幼少である後継者・盛親の代理を
親氏が行う事が多かった。
元親の代理で出陣した朝鮮出兵で陣没。


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◆香宗我部親和(1591〜1660)

香宗我部親泰の次男。長壽丸。左近。貞親。中原源左衛門。

兄に香宗我部親氏
養子に香宗我部親重

兄の死、父親の病没により香宗我部家を継ぐ。
主家滅亡後堺にて過ごし、肥前寺沢志摩守に五百石で従える。
豊臣家滅亡後、中原源左衛門と名を変え再び浪人するも、
春日局の推挙により堀田家に千石で仕える。
高井源左衛門の子が養子に入り、親重を名乗って家督を継いだ。


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◆香宗我部親重

高井源左衛門の子で香宗我部親和の養子。

香宗我部親和の死後、堀田家改易後、遠戚の仙台藩士柴田朝意を頼り、
伊達家に仕官した。伊達家では合力小判百両、百人扶持という千石相当の
厚遇を受けた。後に堀田正信の招きにより、妻と共に下総古河へ移った。
養子に親清。


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◆中山田泰吉(1541〜1613)

香宗我部秀通の子。香宗我部左衛門佐。

子に秀長、宣時、養子に弟の香宗我部秀政。姉は香宗我部親泰の妻。

父は長宗我部家との勢力争いで実兄に殺され、香宗我部家は長宗我部親泰が
継ぎ、自らは中山田家を興す。泰吉は香宗我部家臣として親泰に仕える。
親泰にその才を認められ、自分の跡はこの泰吉が香宗我部家を継ぐとし、
元親、親泰が太閤秀吉に謁見した際、泰吉を香宗我部家の嫡子と公言した。
しかし、実際には香宗我部家は親泰の子が継いだ。
関ヶ原では徳川家康と気脈を通じ、井伊直正を通じて
「香宗我部家は盛親と別心である」と伝え、家康も香宗我部家の後時存続を
約束したといわれる。中山田の家督は自分の弟の新介秀政を養子として
後を継がせ、長宗我部家滅亡後は山内氏に仕えた。


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◆中山田秀長(?〜?)

中山田泰吉の子。弟に宣時。


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◆香宗我部秀政(1544〜1619)

香宗我部秀通の次男。新介。
中山田泰吉の弟でその養子。子に政氏、中山直治。


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◆香宗我部久秀(?〜?)

香宗我部秀政の孫・中山秀治の三男。中山直治の孫。

香宗我部重親の三女を娶り、香宗我部家の分家を興した。






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