防長・大内氏、豊後・大友氏


防長門・大内氏

◆大内義隆(1507〜1551)

大内義興の嫡男。幼名は亀童丸。周防介。
子に大内義尊、弘盛、義教、問田亀鶴丸。養子に大内晴持、義長。


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◆大内義尊(1545〜1551)

大内義隆の嫡男。幼名は亀童丸。従五位下周防介。
義隆の薫陶篤く、有識故実に通じて茶道や雅楽を嗜んだという。
陶晴賢の謀反で、父は大寧寺にて自害、義尊も捕えられ斬られた。


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◆大内晴持(1524〜1543)

大内義隆の甥で養嗣子。実父は土佐の一条房冬。一条恒持、大内義房。
三歳の時に男子のなかった大内義隆の養嗣子となる。
文武に秀で和歌や管弦などの雅な教養にも明るく、公家の名門一条家の血筋も
あってなのか義隆に可愛がられた。
後に養子となった大友晴英(大内義長)の扱いに比べると雲泥の差である。
(養子になった後、義隆に嫡男・義尊が生まれたことが大きいが)
 1541年に出雲の尼子経久が没すと、義隆は1542年1月に晴持らを率いて出雲に
出陣したが、三刀屋久扶、本城常光らの寝返りで大内軍は総崩れとなり、
義隆と晴持は別々の船で周防に退却することになった。
しかし、船が途中で転覆したため、晴持は溺死。享年20。


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◆大内義長(1540〜1557)

大内義隆の甥で養子。実父は大友義鑑。
1544年、実子の無い大内義隆の養子として迎えられ、時の将軍・足利義晴から
一字をもらって晴英と名乗る。しかし翌年、義隆に実子・義尊が誕生したため、
養子関係を解消される。1551年、陶晴賢(隆房)が謀反を起こして義隆が
殺されると、大内氏の新当主として擁立され、義長と改名した。
陶氏が毛利元就に敗れると、大内氏は衰退し、1557年に毛利元就が山口へ侵攻し、
且山城を攻めると、義長は長福寺(功山寺)で自害した。享年17。
義長の死により、西国の名門・大内氏は完全に滅亡したのである。


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◆大内輝弘(1520?〜1569)

大内義興の弟・高弘の子。
大内一族であるが、義隆と対立していた為、大友氏の家臣となっていた。
大友義鎮の後援を受けて、毛利勢が留守中の山口に攻め入る。
一時は勢威を誇ったが、急行した吉川元春に敗れ、茶臼山で自刃した。
子に大内武弘。


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豊後・大友氏

◆大友 義鎮

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◆大友親貞

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◆大友義統

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◆大友親家

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◆大友親盛

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◆大友義乗

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◆大友貞勝

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◆松野正照

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研究中



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