◆斯波義銀(1540〜1600) 別名:岩龍丸。治部大輔。三松軒。津川義近。 尾張守護・斯波氏嫡流最後の当主。 斯波義統の嫡男。毛利秀頼、津川義冬、蜂屋謙入らの兄。 子に大蔵(早世)、津川近利、辰珍、親行。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆毛利長秀(1541〜1593) 別名:河内守、羽柴河内侍従、毛利秀頼、羽柴河内侍従豊臣秀頼 斯波義統の次男。兄に斯波義銀、弟に津川義冬、蜂屋謙入。 父の死後、毛利十郎敦元に助けられ、毛利姓を名乗る。 織田信長に仕え、馬廻り、赤母衣衆、となる。 桶狭間の戦い、石山本願寺との戦いで戦功を挙げ、 信長から南信濃の高遠城を与えられ、大名として取り立てられた。 本能寺の変が起こると、武田氏の旧臣などによる反乱の恐れから 所領を捨てて尾張に逃亡し、以後は羽柴秀吉の家臣として仕える。 そして小牧・長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐などに参陣して 軍功を挙げたため、再び南信濃の飯田に所領十万石を与えられ、 大名として返り咲いた。 その死後は、婿にあたる京極高知が遺領の大部分である九万石を継ぎ、 残る一万石のみ子息・毛利秀秋が継いだ。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆毛利秀秋(?〜1615) 別名:河内守、秀政 毛利長秀の嫡子。 信濃にて一万石の大名。 関ヶ原の役で西軍に属し、伏見城攻撃戦に参加したため、戦後所領を没収。 のち豊臣秀頼に出仕して5000石を知行し、大坂両陣にも豊臣方として参戦。 元和元年(1615)五月七日、上本町で東軍の仙石忠政と戦って討死した。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆津川義冬(1545〜1584) 別名:源三郎、近治、玄蕃允 斯波義統の三男。兄に斯波義銀、毛利長秀、蜂屋謙入。 斯波氏傍流の津川姓を称す。松ヶ島城城主。 信長に仕え、信雄の家老として付けられた。 本能寺の変後、羽柴秀吉と対立する信雄に疑われて殺害された。 秀吉の策謀によるとも、信雄に厳しく諫言した為とも。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆蜂屋謙入(?〜1593) 別名:津川賢入、大膳大夫 斯波義統の末男。兄に斯波義銀、毛利長秀、弟に津川義冬。 織田信雄が謙入の兄・津川義冬を殺害すると、兄・斯波義銀とともに 伊勢松ヶ島城に拠って抵抗し、戦後秀吉に仕えた。 九州征伐に従軍し、同年従五位下大膳大夫に叙位任官。 小田原の役では兄・義銀とともに北条氏政の助命を嘆願したが失敗に終わった。 その後文禄の役に参加したが、1593年に死去。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆津川近利(1582〜1642) 津川義近(斯波義銀)の次男。休閑。 徳川家康、秀忠に仕えて幕臣となった。 子に津川近光、右京近良、八郎左衛門近昌。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆津川辰珍(?〜?) 津川義近の三男。名は「たつうず」と読む。 四郎右衛門。 養子に次兄孫の辰房。(実父は津川近光) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆津川親行(?〜1615) 斯波義銀の四男。左近将監。近治。 妻は織田長益の娘。 秀吉に仕えて馬廻・黄母衣衆。のち秀頼に仕えて千五百石。 大坂の役夏の陣において自刃した。戦死とも。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆津田正勝(?〜?) 別名:義忠。正忠。織田清次。 父は津川義近とされるが疑問視されている。 加賀前田家に仕え、家老となり一万石を食んだ。 また、家は維新まで続き、時の当主・正邦が斯波姓に復し男爵となった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆牧長義(?〜?) 別名:義清、下野守 津川弥太郎義長の子。斯波義銀の従兄弟。尾張川村城主。信長に仕えた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆牧長清(?〜1570) 別名:与三右衛門 牧長義の長子。愛知郡小林城主。妻は信長の妹。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆牧長治(?〜?) 別名:喜右衛門。正勝。法名林庵。 津川義長の次男。牧長義の弟。 春日井郡長久手村に住し、信長に仕え、某年七十五歳で死去という。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆奥田直政(1547〜1608) 別名:監物。三右衛門政次。直次。堀直政。 父は奥田直純。 子に堀直清、直寄、直重、直之 堀秀政の従兄弟。 尾張国中島郡奥田庄に生まれ、堀秀政に仕えその家老となる。 後に秀政から堀姓を賜姓され堀直政と名乗った。 直政の堀氏は、江戸時代を大名として存続し、 明治維新に際して奥田姓に戻した。 直政の曽祖父が斯波政敏であり、その子秀種から奥田を姓とした。 また、『名将現行録』に天下の三陪臣というものがあり 直江山城(兼続)、小早川左衛門(隆景)と並び、堀監物杯(直政) が挙げられている。かなりの傑物だったようである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 奥州斯波氏 ◆斯波兼頼(?〜?) 別名:最上兼頼。竹寿丸。出羽大将。修理大夫。 奥州探題斯波家兼の次男であり、羽州探題。初代最上氏。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆大崎義隆(1548〜1603) 官途:左衛門督。 大崎義直の子で、陸奥大崎三十五万石を領したとされる奥州斯波氏の裔。 名生(みょう)城を本拠とした奥州探題家大崎氏第12代当主。 重臣氏家吉継の離反以来家中が弱体化、天正十六年には侵入してきた伊達氏を 一時撃退したが後が続かず、秀吉の小田原征伐への遅参や領内の一揆発生を 咎められ失領。後に上杉景勝を頼りその家臣となった。 子には大崎義興、義成等。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆ |